汪兆銘
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10代前半で父母を相次いで亡くした汪兆銘は、長兄を頼って生活せざるを得なくなったが、遺産もろくになかったところから早々と自立を迫られた[5]。10代後半には書塾の教師となったが、その頃、同腹の兄2人も相次いで亡くしたことから、2人の兄嫁と1人のの面倒もみなければならなくなり、一家の家計を支えることとなった[5]。彼はこの時期のことをふりかえって「貧しく、悲しく、痛ましいものであった」と回想している[5]
日本留学と革命運動への参加

生活に追われて近代教育を受けられなかったことを嘆いていた汪兆銘が転機をむかえたのは、1904年(光緒30年)、科挙(中国の高級官吏任用試験)に合格し、清朝広東省政府の官費留学生に選ばれて、日本への派遣が決まったことであった[4][5][8]日露戦争中の同年9月、汪兆銘は東京市和仏法律学校法政速成科(現在の法政大学)に進学した[1][2][4][5][8]。速成科は、中国人留学生のために特設されたものであり、授業は通訳を通じて行われていたので日本語を知らなくても法学の授業を理解することができた[5]。法政で同時期に学んだ人物に同郷の胡漢民や朱執信らがいる[8][注釈 2]

日露戦争について汪は「心から日本を支持する」と述べ、一東洋人として日本の勝利に歓喜した[10]。また、「日本国民の熱烈な愛国心は、若い私の胸中を非常に燃え立たせた」とのちに述懐している[5]

留学中の汪兆銘は、梅謙次郎富井政章山田三良らの講義を好んで聴いたが、それにもまして彼に大きな影響を与えたのは憲法学の講義であった[5]。それまで「君臣の義」といった儒教的価値観に縛られていたのに対し、憲法学によって国家の観念や主権在民の思想を学ぶにつれ、汪兆銘は革命への傾斜を強めていったのである[5]。一方、彼は明治維新歴史に興味を持ち、特に西郷隆盛勝海舟の2人には強く惹かれて、彼らに関する書籍を読みあさった[5]孫文

留学中、汪は孫文の革命思想に触れて「興中会」(1894年結成)に入った。革命派は、広東省出身者の多い興中会のほか、湖南省出身者の多い「華興会」(1903年結成)、浙江省出身者の多い「光復会」(1904年結成)があり、それぞれ横の連絡を欠きつつ、武装蜂起をくり返していた[5]。日露戦争における日本の勝利やロシア帝国における血の日曜日事件などにより、在日中国人のあいだでは革命の気分が高まり、宮崎滔天らの奔走もあって興中会・華興会・光復会の大同団結が図られ、1905年8月、3つの革命会派は孫文の来日を機に中国同盟会に合流した[1][2][4][5][8][11]。このときの孫文の演説は若い汪兆銘の心を打ち、かねてより孫文に対して抱いていた信頼と尊敬の念は不動のものとなった[5]。孫文もまた、汪兆銘を厚く信頼し、中国同盟会評議部長に抜擢し、のちには執行部の書記長を兼務させた[5][注釈 3]。なお、同盟会の会章は、黄興陳天華宋教仁馬君武・汪兆銘ら8人の起草によるものである[11]

中国革命同盟会は、「民族・民権・民生」の三民主義を綱領として掲げた[12]。1905年11月には、中国同盟会の機関誌『民報』が発行されることになり、汪兆銘は章炳麟を補佐して、胡漢民 ・陳天華・朱執信・宋教仁ら同志とともに機関紙の編集スタッフを務め、この頃から「精衛」という号を用いるようになった[4][5][8][11][注釈 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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