池部良
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その後は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}上官がすべて他島へ移動してしまったため[要出典]、少尉ながら衛生隊本隊を任されて終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった[18]

1945年11月には進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役を任され、単身で豪海軍駆逐艦に乗り込み、人格者であった艦長とオールド・パーを飲み交わしている。1946年6月まで抑留され、苦労の末に南方から復員船に乗る。他の隊の将校は海に放り込まれたりするが、池部隊では部下が円陣を作って隊長を守ってくれ帰国[18][19]腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかを決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ[20]、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に復帰する[18]。映画界に復帰した池部は、日本共産党とそのシンパによる東宝争議1948年秋まで煩わされた[21]1954年

当時としては高身長である174センチの身長と甘さと渋さを兼ね備えた容貌を生かし、次々と主演作品をヒットさせる。1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚し、その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。特に1949年の『青い山脈』では、当時30代だったにもかかわらず[22]旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。その後は1950年新東宝の『暁の脱走』、1952年松竹の『現代人』と他社の作品にも出演する。特に『現代人』は、池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。『坊っちゃん』(1953年)、『雪国』(1957年)、『暗夜行路』(1959年)などの多くの文芸作品で影のある青年を演じ、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。1960年代に入ると徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。この頃、18歳年下の女性と再婚した[23]1960年代からはテレビドラマにも出演し始めた。

1965年石原裕次郎里見浩太郎山城新伍ら俳優が暴力団の拳銃密輸に加担していたことが明るみに出て、警察庁第一次頂上作戦の一環で、芸能興行関係者に神戸芸能社山口組企業舎弟)ほかヤクザ組織との腐れ縁を絶てと強硬に警告。同年2月22日に日本映画俳優協会会長(1951年設立)だった池部は、映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した[24]。同年9月、東宝を退社し池部プロダクションを設立し、自ら映画を企画してストーリーを書くようになるが、1967年には1億円の負債を抱え、倒産した。同年、東映より高倉健主演『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されるが、妻に強く反対されたため、当初は断っている。しかし、プロデューサー俊藤浩滋による再三の強い懇願で「入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすること」を条件に出演を承諾した[24]。公開された『昭和残侠伝』は大ヒットし、役名は毎回違っても主人公を支えるヤクザ役でシリーズを支えていく。三島由紀夫は、役中の誠実さについて「他人の心にある火を自分の事のように、そっと温めている」と激賞した。なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。このほかの東映作品では、池部が元警視総監を演じた千葉真一主演『直撃! 地獄拳』が1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入った。アメリカ合衆国では『The Executioner』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている[25]

1983年より2009年まで(進展創設された)日本映画俳優協会初代理事長を務める[1]1991年、『毎日新聞』連載の『そよ風ときにはつむじ風』で日本文芸大賞を受賞したことから多数の連載を抱えた。以後は作家として文筆業や講演が多くなった。2007年、初の回想研究『映画俳優 池部良』を出版し、同年2月に担当編集者と行った池袋の新文芸坐トークショーでの「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した[出典無効]。ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある[要文献特定詳細情報]。年齢より若い役が多く、実年齢が近い森繁久彌藤田進の息子役を演じたこともある。文筆業が中心となってからでも「自分は(映画)俳優である」という意識を持っていた。しかし、「オファーがあっても(相手から)年齢を聞かれて、答えると『じゃあ、この話は…』と断られてしまう」ことを2008年2月12日放送の『徹子の部屋』で語っていた[出典無効]。

2010年10月8日午後1時55分、敗血症により、東京都内の病院で死去[3]。92歳没[26]。雑誌『百歳万歳』『銀座百点』ほか4誌にエッセイを連載中の死去であった。
人物

「青い山脈」で演じた旧制高校生役が話題を呼び、二枚目の演技派として人気スターになる[3]

池部について妻の美子は「主人は本当に優しい人で決して自分から売り込んだりする人ではありませんでしたけど、原作者の先生方(志賀直哉川端康成など)にとても好かれていたようです。」と述べている[27]

所有していた書籍や新聞・原稿のうち、資料のほとんどを早稲田大学が引き取った[27]。また、麻布図書館に設けられた「池部良さんの本棚」は妻の美子から寄贈された書籍の棚である[27]
家族・親族
池部家 


父・
[28][29][30][1][31]1886年 - 1969年) - 風刺・風俗漫画家として一世を風靡した。日本芸術院より恩賜賞を受賞[32]

母(画家・漫画家岡本一平の妹)

妻・美子[3]森永製菓二代目社長の松崎半三郎が祖父にあたる) - 祖父・松崎半三郎の800坪のお屋敷(麻布本村町)で育った[27]。麻布の自宅から立教女学院(三鷹台)までお手伝いさんの送り迎えつきで通った[27]。結婚について美子は「池部とは、とある雑誌の編集長主催の食事会で知り合った。仕組まれたお見合いみたいなものだったのでしょう。母も私も池部良が有名な俳優である事を知らなかった。」と述べている[27]

親戚


従兄・岡本太郎(芸術家)[33]


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