いけべ りょう
池部 良
1952年撮影
生年月日 (1918-02-11) 1918年2月11日
没年月日 (2010-10-08) 2010年10月8日(92歳没)
出生地 日本・東京府東京市大森
(現・東京都大田区大森)
死没地 日本・東京都
身長174 cm
血液型B型
職業俳優・随筆家
活動期間1941年 - 2010年
事務所鈍牛倶楽部(最終所属)
主な作品
映画
『青い山脈』 / 『現代人』
『坊っちゃん』 / 『雪国』 /『乾いた花』 /『暗夜行路』
『昭和残侠伝シリーズ』 / 『地獄拳シリーズ』
受賞
日本文芸大賞
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池部 良(いけべ りょう[1][2]、1918年〈大正7年〉2月11日[1] - 2010年〈平成22年〉10月8日[3])は、日本の俳優、随筆家。東京市大森区(現・東京都大田区)出身[1]。身長174センチメートル[4]。立教大学文学部英文科卒業[5][1]。昭和中期の代表的な映画スターの一人。甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとった[6]。 大学では富田彬などから学ぶとともに[7]、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り[注釈 1]、1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社する。監督希望だったが[8][1]、戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する[9][1]。それが好評となり、知的でスマートな若手俳優のホープとして注目された。 1942年の『緑の大地』のクランクアップの翌日に陸軍に召集され、中国山東省に派遣された[10][11][12]。大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められる[11]。任期が長くなるために断るが[注釈 2]、上官に無理やり受けさせられ、白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、厳しい訓練を受けた。1943年11月に見習士官に任官後[13]、予備陸軍少尉を経て1944年に南方戦線へ移動される。竹一船団の輸送船「天津山丸」に乗船するが[14]、5月12日に敵潜水艦に撃沈され[15]、セレベス海に投げ出されて10時間泳いだ後、海軍の艦船に救出され、インドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属された[16]。そこは食料も弾薬も豊富だったが、1944年9月にはアメリカ軍のすさまじい艦砲射撃や空爆を受け、ジャングルに逃げ込んだ[17]。その後は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}上官がすべて他島へ移動してしまったため[要出典]、少尉ながら衛生隊本隊を任されて終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった[18]。 1945年11月には進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役を任され、単身で豪海軍駆逐艦に乗り込み、人格者であった艦長とオールド・パーを飲み交わしている。1946年6月まで抑留され、苦労の末に南方から復員船に乗る。他の隊の将校は海に放り込まれたりするが、池部隊では部下が円陣を作って隊長を守ってくれ帰国[18][19]。腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかを決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ[20]、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に復帰する[18]。映画界に復帰した池部は、日本共産党とそのシンパによる東宝争議に1948年秋まで煩わされた[21]。1954年 当時としては高身長である174センチの身長と甘さと渋さを兼ね備えた容貌を生かし、次々と主演作品をヒットさせる。1948年に女優の羽鳥敏子
来歴
1965年、石原裕次郎・里見浩太郎・山城新伍ら俳優が暴力団の拳銃密輸に加担していたことが明るみに出て、警察庁は第一次頂上作戦の一環で、芸能興行関係者に神戸芸能社(山口組の企業舎弟)ほかヤクザ組織との腐れ縁を絶てと強硬に警告。