池部良
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身長174センチメートル[4]立教大学文学部英文科卒業[5][1]。昭和中期の代表的な映画スターの一人。甘いマスクとスマートさで「万年青年」の異名をとった[6]
来歴

大学では富田彬などから学ぶとともに[7]、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り[注釈 1]1941年に卒業すると同時にシナリオ研究所を卒業して東宝に入社する。監督希望だったが[8][1]、戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属されて早々部長に面食いだからと言われ、当時は子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する[9][1]。それが好評となり、知的でスマートな若手俳優のホープとして注目された。

1942年の『緑の大地』のクランクアップの翌日に陸軍召集され、中国山東省に派遣された[10][11][12]。大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められる[11]。任期が長くなるために断るが[注釈 2]、上官に無理やり受けさせられ、白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、厳しい訓練を受けた。1943年11月に見習士官に任官後[13]予備陸軍少尉を経て1944年に南方戦線へ移動される。竹一船団の輸送船「天津山丸」に乗船するが[14]、5月12日に敵潜水艦に撃沈され[15]セレベス海に投げ出されて10時間泳いだ後、海軍の艦船に救出され、インドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属された[16]。そこは食料も弾薬も豊富だったが、1944年9月にはアメリカ軍のすさまじい艦砲射撃や空爆を受け、ジャングルに逃げ込んだ[17]。その後は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}上官がすべて他島へ移動してしまったため[要出典]、少尉ながら衛生隊本隊を任されて終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった[18]

1945年11月には進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役を任され、単身で豪海軍駆逐艦に乗り込み、人格者であった艦長とオールド・パーを飲み交わしている。1946年6月まで抑留され、苦労の末に南方から復員船に乗る。他の隊の将校は海に放り込まれたりするが、池部隊では部下が円陣を作って隊長を守ってくれ帰国[18][19]腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかを決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ[20]、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に復帰する[18]。映画界に復帰した池部は、日本共産党とそのシンパによる東宝争議1948年秋まで煩わされた[21]1954年

当時としては高身長である174センチの身長と甘さと渋さを兼ね備えた容貌を生かし、次々と主演作品をヒットさせる。1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚し、その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。特に1949年の『青い山脈』では、当時30代だったにもかかわらず[22]旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。その後は1950年新東宝の『暁の脱走』、1952年松竹の『現代人』と他社の作品にも出演する。特に『現代人』は、池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。『坊っちゃん』(1953年)、『雪国』(1957年)、『暗夜行路』(1959年)などの多くの文芸作品で影のある青年を演じ、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。1960年代に入ると徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。この頃、18歳年下の女性と再婚した[23]1960年代からはテレビドラマにも出演し始めた。

1965年石原裕次郎里見浩太郎山城新伍ら俳優が暴力団の拳銃密輸に加担していたことが明るみに出て、警察庁第一次頂上作戦の一環で、芸能興行関係者に神戸芸能社山口組企業舎弟)ほかヤクザ組織との腐れ縁を絶てと強硬に警告。同年2月22日に日本映画俳優協会会長(1951年設立)だった池部は、映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した[24]。同年9月、東宝を退社し池部プロダクションを設立し、自ら映画を企画してストーリーを書くようになるが、1967年には1億円の負債を抱え、倒産した。同年、東映より高倉健主演『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されるが、妻に強く反対されたため、当初は断っている。しかし、プロデューサー俊藤浩滋による再三の強い懇願で「入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすること」を条件に出演を承諾した[24]。公開された『昭和残侠伝』は大ヒットし、役名は毎回違っても主人公を支えるヤクザ役でシリーズを支えていく。三島由紀夫は、役中の誠実さについて「他人の心にある火を自分の事のように、そっと温めている」と激賞した。なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。このほかの東映作品では、池部が元警視総監を演じた千葉真一主演『直撃! 地獄拳』が1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入った。アメリカ合衆国では『The Executioner』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている[25]

1983年より2009年まで(進展創設された)日本映画俳優協会初代理事長を務める[1]1991年、『毎日新聞』連載の『そよ風ときにはつむじ風』で日本文芸大賞を受賞したことから多数の連載を抱えた。以後は作家として文筆業や講演が多くなった。2007年、初の回想研究『映画俳優 池部良』を出版し、同年2月に担当編集者と行った池袋の新文芸坐トークショーでの「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した[出典無効]。ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある[要文献特定詳細情報]。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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