1983年より2009年まで(進展創設された)日本映画俳優協会初代理事長を務める[1]。1991年、『毎日新聞』連載の『そよ風ときにはつむじ風』で日本文芸大賞を受賞したことから多数の連載を抱えた。以後は作家として文筆業や講演が多くなった。2007年、初の回想研究『映画俳優 池部良』を出版し、同年2月に担当編集者と行った池袋の新文芸坐のトークショーでの「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した[出典無効]。ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある[要文献特定詳細情報]。年齢より若い役が多く、実年齢が近い森繁久彌や藤田進の息子役を演じたこともある。文筆業が中心となってからでも「自分は(映画)俳優である」という意識を持っていた。しかし、「オファーがあっても(相手から)年齢を聞かれて、答えると『じゃあ、この話は…』と断られてしまう」ことを2008年2月12日放送の『徹子の部屋』で語っていた[出典無効]。
2010年10月8日午後1時55分、敗血症により、東京都内の病院で死去[3]。92歳没[26]。雑誌『百歳万歳』『銀座百点』ほか4誌にエッセイを連載中の死去であった。 「青い山脈」で演じた旧制高校生役が話題を呼び、二枚目の演技派として人気スターになる[3]。 池部について妻の美子は「主人は本当に優しい人で決して自分から売り込んだりする人ではありませんでしたけど、原作者の先生方(志賀直哉、川端康成など)にとても好かれていたようです。」と述べている[27]。 所有していた書籍や新聞・原稿のうち、資料のほとんどを早稲田大学が引き取った[27]。また、麻布図書館に設けられた「池部良さんの本棚」は妻の美子から寄贈された書籍の棚である[27]。
人物
家族・親族
池部家
父・鈞[28][29][30][1][31](1886年 - 1969年) - 風刺・風俗漫画家として一世を風靡した。日本芸術院より恩賜賞を受賞[32]。
母(画家・漫画家岡本一平の妹)
妻・美子[3](森永製菓二代目社長の松崎半三郎が祖父にあたる) - 祖父・松崎半三郎の800坪のお屋敷(麻布本村町)で育った[27]。麻布の自宅から立教女学院(三鷹台)までお手伝いさんの送り迎えつきで通った[27]。結婚について美子は「池部とは、とある雑誌の編集長主催の食事会で知り合った。仕組まれたお見合いみたいなものだったのでしょう。母も私も池部良が有名な俳優である事を知らなかった。」と述べている[27]。
親戚
従兄・岡本太郎(芸術家)[33]
従姪・安倍昭恵(衆議院議員・内閣総理大臣の安倍晋三の夫人)
出演
映画『現代人』(1952年)『早春』(1956年)『乾いた花』(1964年)『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』(1966年)
闘魚
希望の青空(1942年) - 太田務
緑の大地(1942年)
戦争と平和 (1947年)
四つの恋の物語(1947年)
春の饗宴(1947年)- 早坂三平
わが愛は山の彼方に(1948年)
破戒(1948年)
青い山脈(1949年)
続青い山脈(1949年)
私刑 リンチ(1949年)
深夜の告白(1949年)
暁の脱走(1950年)
暁の追跡(1950年)
石中先生行状記(1950年)
愛と憎しみの彼方へ(1951年) - 北原浩
熱砂の白蘭 (1951年)
恋人(1951年)
青い真珠(1951年)
ブンガワンソロ(1951年) - 深見伍長
平安群盗伝 袴だれ保輔(1951年)
若い人(1952年)
現代人(1952年)
丘は花ざかり(1952年)
坊つちやん(1953年) - 坊ちゃん
都会の横顔(1953年)
わたしの凡てを(1954年) - 関三郎
さらばラバウル(1954年)
風立ちぬ(1954年) - 福山良一
恋化粧(1955年)
不滅の熱球(1955年)
大番頭小番頭(1955年)
乱菊物語(1956年)
早春(1956年)
吸血蛾(1956年) - 金田一耕助