1971年、円谷プロでウルトラシリーズが再開されることを聞きつけ、マネージャーを通して円谷一に相談し、『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』(TBS)でレギュラー・南猛隊員を演じることとなる[9]。翌年には再び円谷プロの『緊急指令10-4・10-10』(NET)に花形一平役でレギュラー出演した[9]。1973年には、古巣の東映で『人造人間キカイダー』の続編が制作されることを知り、プロデューサー・吉川進に自ら売り込みをかけ、『キカイダー01』の主人公・イチロー役に抜擢される[10]。『01』終了後は『キカイダー』とともにハワイ州のKIKU-TVに輸出され、日本国内を凌駕する一大ムーブメントに発展[2]。キカイダー=ジロー役の伴大介とともに現地のイベントに招かれ、超満員のファンに迎えられた[2]。
俳優業のかたわら、東京・三軒茶屋で「ゼロワン・チェーン」という大判焼きの店を経営していたことがあり、「巡礼」に訪れるファンも多かった[11]。1990年代には洋服メーカー・ゼビーのレギュラーキャラクターを務め、CMにも出演[12]。晩年は主にCMや舞台のほか、『帰マン』や『キカイダー』関連のイベントなどで活躍していた。
2010年6月11日午前3時10分、胃癌のため千葉県の病院で死去[13][14]。69歳没。6月15日に神奈川県川崎市の登戸やすらぎ会館で通夜が営まれた[15]。6月16日の告別式では東映の同期だった小林稔侍が弔辞を読み、故人を偲んだ。祭壇には撮影で実際に使用されたイチローのヘルメットとトランペットが飾られ、献花の際は『帰マン』の主題歌、出棺の際には『01』のテーマ曲が流れた[2]。『帰マン』で共演した団時朗と西田健、そして伴大介が追悼の辞を雑誌『宇宙船』Vol.129『追悼:池田駿介』の特集記事に寄せている[2]。3人とも偶然にも、池田が死去する直前に別のインタビューに答えていた。7月に放送予定だった東映チャンネルの『ピンスポ』と2010年8月発売の東映ヒーローMAXのインタビューに答える予定で承諾も得ていたが、収録日予定日だった5月下旬に再入院してそのまま死去したため、どちらも叶わなかった[16]。生前に「俺が死んだらハワイの海に(骨を)まいてくれ」と語っており[17]、誕生日である11月11日にハワイでお別れ会と散骨が行われた。 趣味はサイクリング[18]。特技は柔道(三段)で、高校時代より選手として活躍[3]。 『帰マン』共演者では団と西田以外では三井恒と仲が良く、放送当時は4人で遊びに出かけていた[19]。
人物・エピソード