中学2年生の時にNHKのテレビドラマ『次郎物語』の主役を務め、その頃から本格的に「役者をやってみたい」と思い始めるようになり、演技が高く評価されて「天才子役」として名を成す[16]。鈴置洋孝は『機動戦士ガンダム』で初共演する際、『次郎物語』の池田、『巨人の星』の古谷徹との共演に感激したという。子役時代のあだ名は「秀坊」。中学生時代には、一千万人の劇場「小さき闘い」(フジテレビ)で石原裕次郎との初共演も果たしている。前述のとおり小学校の頃から芸能活動をしていたことから学生時代のクラブは所属していなかった[2]。その後も『銭形平次』、『遠山の金さん捕物帳』、『大江戸捜査網』、『太陽にほえろ!』、『Gメン'75』、大河ドラマ 『花神』、『大岡越前』、『西遊記』など多くのテレビドラマに出演を重ねた[16][注 1]。 NHKラジオの学校放送の仕事をしていたが[12]、俳優として伸び悩んでいた時期でもあった[10]。20歳から21歳の時に出演したテレビドラマで主役の弟役を演じていたが、彼女と喧嘩するも次の週には普通に会っている場面に違和感を覚え、監督に「これはおかしい。和解したところが描かれていない」と指摘したが、「別に君たちを描いているわけじゃないから」と言い返される[10]。それまで参加した作品では、「おかしい」と思っていたことは聞いてくれていたが、「こだわるのはよそう」と挫折を感じていた[10]。そんな時に知り合いの宮内幸平が洋画の吹き替えの仕事をしており、「声の仕事もやってみないか?」と言われたため、「まぁやってみようかな」と洋画の吹き替えに出演[16][10][17]。 当時はフィルムだったことから事前にビデオはもらえず、映像はだいたい前日か、ひどいときは当日にリハーサルをして、皆で一斉に観てという感じだった[10]。周囲は皆声の仕事のプロといった感じで上手かったが、当時の池田はセリフを追っているうちに画面を見失い、どこの演技をしているのかわからなくなり、リハーサルにすらならない状態だった[10]。それが要因で先輩にいじめられるというようなことはなかったが、声優は「大変なお仕事だな」「全然僕の世界じゃない、違う土俵だ」と感じていた[10]。その後、『ルーツ』のオーディションを受けて、クンタ・キンテ役で出演[10][11]。その時に「これはラジオドラマだと思えばいいんだな」と感じていた[10]。ラジオと違い、自分の間が通用しないわけだが、「そこは場数をこなして慣れるしかない。だから今は、少しくらい合わなくてもいいや」と考えていた[10]。その時、周囲を見渡したところ、「この人たちは確かに上手いけど、俺も場数さえこなしていけば大丈夫かもしれない」と不遜にも思ってしまった[10]。 その後も俳優業と並行して洋画の吹き替えなどの仕事をいくつかしていたが、1970年代半ば、洋画のアテレコで居合わせたたてかべ和也から紹介された小学校の先輩であった音響監督の松浦典良の勧めによりアニメ『無敵鋼人ダイターン3』に出演した[11][17][18]。アニメ作品デビュー当時、池田は洋画と比較してアニメ作品のアフレコは、何倍も大変と感じ、「最初で最後のアニメ出演」と決めていたという[19][18]。また、当時はアフレコ現場というのは「売れない役者が最後に流れ着く場所」という認識が強く、「アフレコやるようになったら役者としておしまい」という風潮があったという[10]。そのため声優業にはあまり乗り気ではなかったが、『ダイターン3』の後番組『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役のオーディションに参加する[18][20][21]。
声優として