池田秀一
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当初は演じることに興味はあったが、将来的に役者になりたいと思っておらず、映画を見てチャンバラごっこをして遊ぶことの延長のようなの感覚だったという[10][16]劇団こまどりに入団し[8]1958年(昭和33年)から子役として活動。小学3年生の時にガヤで初めてテレビに出演[10]。当時は「長屋で子供が泣いている」というシーンのために呼ばれて、何が悲しいのかわからず、全然泣けなかった[10]。それでディレクターが「どうしたか」、「泣けないか。じゃあ、泣かなくていいや。横で遊んでいて」と言われて、あっさりシーンを変えてしまったという[10]

中学2年生の時にNHKテレビドラマ次郎物語』の主役を務め、その頃から本格的に「役者をやってみたい」と思い始めるようになり、演技が高く評価されて「天才子役」として名を成す[16]鈴置洋孝は『機動戦士ガンダム』で初共演する際、『次郎物語』の池田、『巨人の星』の古谷徹との共演に感激したという。子役時代のあだ名は「秀坊」。中学生時代には、一千万人の劇場「小さき闘い」(フジテレビ)で石原裕次郎との初共演も果たしている。前述のとおり小学校の頃から芸能活動をしていたことから学生時代のクラブは所属していなかった[2]。その後も『銭形平次』、『遠山の金さん捕物帳』、『大江戸捜査網』、『太陽にほえろ!』、『Gメン'75』、大河ドラマ花神』、『大岡越前』、『西遊記』など多くのテレビドラマに出演を重ねた[16][注 1]
声優として

声の仕事における初仕事はラジオドラマであった[17]

NHKラジオの学校放送の仕事をしていたが[12]、俳優として伸び悩んでいた時期でもあった[10]。20歳から21歳の時に出演したテレビドラマで主役の弟役を演じていたが、彼女と喧嘩するも次の週には普通に会っている場面に違和感を覚え、監督に「これはおかしい。和解したところが描かれていない」と指摘したが、「別に君たちを描いているわけじゃないから」と言い返される[10]。それまで参加した作品では、「おかしい」と思っていたことは聞いてくれていたが、「こだわるのはよそう」と挫折を感じていた[10]。そんな時に知り合いの宮内幸平が洋画の吹き替えの仕事をしており、「声の仕事もやってみないか?」と言われたため、「まぁやってみようかな」と洋画吹き替えに出演[16][10][17]

当時はフィルムだったことから事前にビデオはもらえず、映像はだいたい前日か、ひどいときは当日にリハーサルをして、皆で一斉に観てという感じだった[10]。周囲は皆声の仕事のプロといった感じで上手かったが、当時の池田はセリフを追っているうちに画面を見失い、どこの演技をしているのかわからなくなり、リハーサルにすらならない状態だった[10]。それが要因で先輩にいじめられるというようなことはなかったが、声優は「大変なお仕事だな」「全然僕の世界じゃない、違う土俵だ」と感じていた[10]。その後、『ルーツ』のオーディションを受けて、クンタ・キンテ役で出演[10][11]。その時に「これはラジオドラマだと思えばいいんだな」と感じていた[10]。ラジオと違い、自分の間が通用しないわけだが、「そこは場数をこなして慣れるしかない。だから今は、少しくらい合わなくてもいいや」と考えていた[10]。その時、周囲を見渡したところ、「この人たちは確かに上手いけど、俺も場数さえこなしていけば大丈夫かもしれない」と不遜にも思ってしまった[10]

その後も俳優業と並行して洋画の吹き替えなどの仕事をいくつかしていたが、1970年代半ば、洋画のアテレコで居合わせたたてかべ和也から紹介された小学校の先輩であった音響監督松浦典良の勧めによりアニメ『無敵鋼人ダイターン3』に出演した[11][17][18]。アニメ作品デビュー当時、池田は洋画と比較してアニメ作品のアフレコは、何倍も大変と感じ、「最初で最後のアニメ出演」と決めていたという[19][18]。また、当時はアフレコ現場というのは「売れない役者が最後に流れ着く場所」という認識が強く、「アフレコやるようになったら役者としておしまい」という風潮があったという[10]。そのため声優業にはあまり乗り気ではなかったが、『ダイターン3』の後番組『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役のオーディションに参加する[18][20][21]。その時に見た安彦良和シャア・アズナブルのイラストにインスピレーションを感じ、シャア役のテストを受け、その役を得た[18][20][21]
現在まで

2010年に第4回声優アワードシナジー賞を受賞[22]

2023年、第17回声優アワード助演声優賞を受賞[23]
人物・特色.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "池田秀一" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年11月)


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