池田が挿絵家としても一流だったことはいまでは忘れられている。カット類をまとめると1000点を超えるとみられる[6]。コラージュは新聞紙、雑誌、布などを組み合わせて貼り付ける手法だが、池田は版画制作を始める前にコラージュを手掛け、カット、版画などに活用するようになった[7]。1960年代?70年代、池田の作品はイラストレーターやグラフィック・デザイナーに刺激を与えた。
池田のカット、コラージュの全容の一部が分かるのが、池田著『コラージュ アフォリズム』(1986年、創樹社)である。300点強のカット、コラージュを収録。カットや版画作品を見ると、池田が作品制作にコラージュの手法を多用していることが分かる。コラージュは池田の制作活動の基本的な手法の一つとなっている。『コラージュ論』(1987年、白水社)を著している。
1961年以降、岩波書店発行の雑誌『世界』とPR誌『図書』、『朝日ジャーナル』、新聞・雑誌にカットを描いていたが、芥川賞受賞以降は出版社が遠慮して注文自体が少なくなった。
国立国会図書館新館ロビーに設置されたタピスリー・コラージュ「天の岩戸」(1986年)が著名だ。天女が空へ舞い上がるイメージで制作された西陣織を使った「天女乱舞A」(1987年、池田満寿夫美術館蔵)は親友の澁澤龍彦へのオマージュとして完成させた。 高校2年のとき、油彩「橋のある風景」(池田満寿夫美術館蔵)が第1回全日本学生油絵コンクールでアトリエ賞を受賞した。高校卒業後、画家を目指して上京したが、公募展に出品した油彩作品は世に認められなかった。版画を始めた後も、しばらくの間、油絵を制作。約20年間中断し、80年代以降は、アクリルでまず下絵・原画を描いてから版画制作に取り掛かる手法を用いたこともあった。雑誌『婦人公論』『月刊現代』の表紙を飾った女性像はアクリルだ。 池田の油彩は、中学、高校時代、20代以降で大きな振幅を示す。ユトリロやヴラマンク、モディリアニ、佐伯祐三、松本俊介にあこがれた少年時代は灰色調だったが、その後、原色を使用し、さらに、ピカソ風、シュルレアリスム風、抽象 などへ作風が揺れ動いた[8]。アクリルの表紙画は具象性
油彩とアクリル、水彩
亡くなる約半年前、池田は東京・新宿の画材店で、油絵の材料を大量に購入し、「これから油絵をしよう」と話していたという。死後、熱海市のアトリエのイーゼルには100号のアクリル作品3点が未完のまま残されていた。
一方、水彩には50年代に描かれたカンディンスキー風の小品や大作「美しさと哀しみと」(1965年、不忍画廊蔵)がある。『みづゑ』表紙や1977年、野性時代新人文学賞を受賞した角川書店発行の『エーゲ海に捧ぐ』の表紙の裸婦は水彩とフロッタージュで描かれている。
「美しさと哀しみと」は同年に制作された松竹映画『美しさと哀しみと』の中に登場する。原作はノーベル賞作家の川端康成で、堕胎した女流画家とその弟子で画家への恋慕から画家の元恋人に近づく若いレズビアンの女性がからむストーリーを監督篠田正浩が映像化した。池田は主人公の女流画家を演じる八千草薫に代わり畳3畳分の絵を描いた。その数年前から池田と交際し、池田の銅版画を高く評価していた篠田[9]が「地獄と怪物」の画家といわれるオランダのボッシュの絵のようにと制作を依頼。上中下畳3畳分の絵のうち、真ん中部分のみ残り、残りは行方不明である。 油絵が売れなかったため、講談社の絵本の挿絵なども手掛けるべく努力していたが 22歳のとき、画家・瑛九の助言で、色彩銅版画を始めた。当時の日本では色彩銅版画を本格的に手掛ける作家が少なく、何とか絵で生活したいと思ったためである。生活費を稼ぐため、エロティックな版画集も制作した。 銅版画のプレス機は当初は小学生が使うようなハガキの倍くらいのサイズしか刷れない機械を使用。公募展で賞をとるたびに賞金で大型のプレス機を購入し、版画作品もこれに伴ってサイズが大きくなっていった[10]。 版画の技法は、瑛九のエッチング講習会の助手をして基本的なことを学んだが、自己流を通した。木版、銅版、シルクスクリーン、リトグラフなどが現存する。特に、ドライポイントによる銅版画の評価が高い。 池田の作品が広く評価されるようになったのは、2人の外国人に銅版画のドライポイントを認められたことがきっかけである。第2回東京国際版画ビエンナーレ展
版画
雪舟の水墨画の影響がうかがえる作品としては、第2回パリ青年ビエンナーレ展版画部門優秀賞を受賞した「大きな女」やドイツの古雑誌を使ったコラージュ「ムーン・フェイス」などが挙げられる[12]。