池田昌子
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気が付いたところ歌も演技も好きになり、止められなったという感じだった[6][12]。芝居の方が好きであり、元々性に合っていたんだと語る[6][13]。「ほかの仕事につきたい」という思いは、なく、気が付いた時には「女優になりたい、うまい役者になりたい」とそれだけだった[13]。2011年時点でも素になってしまうと、人前で話ししたりするのは苦手だったりするが、演じるということが余計面白かったんだという[12][13]1949年、綴り方集を映画化した『風の子』(山本嘉次郎監督)で子役としてデビューする[注釈 1][9][14]

東京都立北野高等学校卒業[15][16]

児童劇で演じる面白さを知ったことで演劇の世界に入り、ラジオドラマなどで声優業を始める[12]。声優デビュー作は、小学5年生の時に出演した学校放送[17]。その後、声だけで役を演じる面白さから声優業が増えたという[12]。生でアテレコを始めた時は緊張の連続で神経がズタズタになり、家に帰ったら寝るだけだったという[15]

一方で舞台活動のほか、1953年NHKで放送した『牛若丸と辯慶』の牛若丸役[18]以後はテレビドラマなどで女優としても活動[19]1969年以降はフジテレビ系『ライオン奥様劇場』のNMCプロ製作の昼メロに主要な役で立て続けに出演し、そこで知り合った助監督の浜田紀政と結婚。子供が生まれ、子供のために活動休止していたが、仕事は続けていきたかったため、声の仕事に復帰したという[20]

声優活動を気に入り女優活動も減っていた頃、あるドラマのプロデューサーから「アテレコなんてしょせんは裏街道だ。女優たるもの、表街道を歩かなくてはだめだ」と言われたことで「裏街道で結構じゃない!」「だったら、裏街道なんて言われないように頑張ろう」と反発。そこから顔出しの出演を一切辞め、声優専業の意志を固めたという[11][12]

所属は、劇団ちどり、劇団現代劇場、フールプールプロ[21]、グループだいこん[22]、セブンセンター[23]、スカイプロ[24]同人舎プロダクション[25]を経て、1981年より東京俳優生活協同組合所属[7]
現在まで

2007年、第1回声優アワード功労賞を受賞[26]

2020年、東京アニメアワードフェスティバルでは「アニメ功労部門」で顕彰された[27]
人物

声種ハイバリトン[28]メゾソプラノ[7]。高貴で神秘的な役柄が多いほか、メインキャラクターの母親役なども多数演じている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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