池田慶徳
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こうした中、大坂天保山を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。

幕府と朝廷から上洛を求められた慶徳は、6月27日に本圀寺に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。家茂と幕兵が6月半ばに東帰したことも好都合だった。攘夷親征の件について諮問を受けた慶徳は、外国が畿内に襲来したら、まずは幕府が防戦に尽力し、次に公家や諸藩が様々に戦術を尽くすなど親征以前に段階を置くべきことを建白した。そして、7月に入洛した阿波藩世子の蜂須賀茂韶および同母弟の岡山藩池田茂政、4月来在洛中の米沢藩上杉斉憲と連携し、攘夷親征派に対抗する在洛諸侯集団を形成した。慶徳の論は従兄の右大臣二条斉敬ら朝廷首脳の支持を得、諸侯集団は朝議への参与を許されるまでになる。

それでも長州が藩兵を入洛させたこともあり、朝廷内ではなお親征派の勢いが強く、要求は緩まなかった。一方、孝明天皇や朝廷首脳が期待を寄せる薩摩越前などの挙兵上洛はなかなか実現しなかった。そこで慶徳は、京都守護職松平容保の会津藩や在京諸藩による天覧馬揃えを朝議に諮った。天皇は大いに喜び、会津藩兵による馬揃えが7月30日、会津・鳥取・岡山・米沢・阿波の5藩による馬揃が8月5日に催された。これは、親征派・反親征派双方に対する示威であるとともに、やがて生じることになる事態に備えた演習の役割も果たすことになった。
八月十八日の政変と本圀寺事件

攘夷親征派がこれで諦めることはなく、8月13日、大和行幸のが渙発された。大和国神武天皇陵・春日大社に行幸、しばらく逗留して親征の軍議をなし、次いで伊勢神宮に行幸するということだった。慶徳ら4侯は、諸侯が反論するよう天皇が望んでいると斉敬から事前に伝えられており、参内して天皇に親征中止を強く訴えたが、親征派の圧力に屈した天皇は攘夷親政を決定した。

このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、クーデターが決行されると阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、三条実美ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した(八月十八日の政変)。

この政変の前日、京都留守居役河田左久馬ら22名の鳥取藩士が「主君の勤王の志を妨げ、天下の汚名を蒙らせた」として慶徳側近の黒部権之助、高沢省己、早川卓之丞の3名を本圀寺において惨殺し、斬奸状で名指しされたもう一人の加藤十次郎も翌日自害するという事件が起こった(本圀寺事件)。尊攘派へ傾倒した河田らは、長州を支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢に憤った結果だった[注釈 3]

政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在洛諸侯は相次いで帰国していった。

その後、慶喜が横浜鎖港を主張して鎖港に否定的な久光・春嶽らに対抗し、孝明天皇の信任を得て一会桑体制を構築したが、慶喜の期待にもかかわらず慶徳・茂政兄弟が再び自ら京都政局に乗り出すことはなかった。
明治期の慶徳

慶応4年2月3日(1868年2月25日)、慶徳は新政府の議定に就任する。翌明治2年2月3日(1869年3月15日)、従二位権中納言に叙される[2]。5月15日(新暦6月24日)、議定から麝香間祗候に移る。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。6月19日、版籍奉還により鳥取藩知事に就任した。

鳥取藩の財政難などのこともあり、知藩事の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。明治8年(1875年)5月27日に隠居し、次男の輝知家督を譲った。

明治10年(1877年)8月2日、肺炎のため神戸で死去した。8月18日、正二位を追贈された[3]。墓所は弘福寺、大正14年(1925年)に多磨霊園平成15年(2003年)に鳥取市内の大雲院に移転改葬された。

明治40年(1907年5月10日、特旨をもって位階追昇された。贈従一位[4]
系譜

父:
徳川斉昭(1800年 - 1860年)

母:松波春子

正室:寛子 - 池田清直養女、池田定保五女

側室:野本氏

生母不明の子女

長男:某

次男:輝知(1861 - 1890)


養子

女子:正姫(1858 - 1873)- 徳川斉昭十五女、池田徳澄正室

女子:常子(1855 - 1913)- 池田敬三郎娘、池田徳定正室

池田慶徳の系譜

                 

 徳川宗堯
 
     

 徳川治保 
 
        

 榊原美衛
 
     

 徳川治紀 
 
           

 一条道香
 
     

 八代君 
 
        

 池田静子


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