江華島事件
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膠着した協議を有利に進展させるため、日本側交渉担当者(理事官である森山と副官である廣津)から測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して声援(圧力)を加える案[14]が提出されたが、太政大臣三条実美は外務卿寺島宗則が対朝鮮交渉の指令案をより譲歩的なものに修正[15]していたこともあってこれを批判[16]。しかし海軍大輔川村純義の建議[17]もあって、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏(征韓論者の反撃を惧れて)に派遣されることになった。

5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港すると朝鮮側は突然の軍艦の来航に懸念を表明したが、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために派遣されたのだ」と説明。さらに軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏のために歓迎式典を行い、筒払いのために空砲を打つが驚かないよう事前通達をした上で実際に空砲を打ってみせた。朝鮮側官吏は「我国ニ於イテモ、何ゾ1、2ノ軍艦ヲ恐ルルニ非レドモ」とした上で軍艦が来ても心労しないよう日本側が求めた際に心配することもされることもないと回答。よって圧力としての交渉の進展に寄与することは無く、日朝交渉は森山たちの帰国という形で一旦打ち切られることになった(軍艦の来航に関する日朝談判の内容については『朝鮮理事誌』5月25日以降の記事[18]に詳しい)。

こうして交渉支援を終えた2隻は、名目上の任務である朝鮮沿岸の測量へと出発した。雲揚は6月20日釜山草梁を出港、同月29日までに朝鮮東岸部を測量し、一旦釜山に帰港している。その際、咸鏡道永興沖において民家の火事を発見して非常措置として上陸し鎮火に協力したり、慶尚道迎日湾においては3士官が薪水を求めて上陸、無断であったので朝鮮側の尋問を受け弁明はしたが、意が通じないため、已む無く雲揚艦に引き返す。その際、慶州県令の来艦を請う。しかし、尋問のために乗船してきたのは慶州県の次官で、同次官から筆談で贈物(酒)を要求され、艦長の井上良馨が激怒。不当行為を糾問するため再度士官以下数名の兵を上陸させ、慶州県令に直談判して謝罪させるといったような出来事があったらしい[19]が、大きな外交問題にはならなかった[注釈 8]

その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(遼寧省営口市)までの航路研究を命じられて出港。その航行の途中、9月20日に首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。端艇を下ろして江華島に接近したところ島に設置されていた砲台から砲撃を受けて交戦状態となった。
二つの上申書と戦闘の詳細[ソースを編集]
10月8日付の上申書[ソースを編集]

艦長の井上良馨による10月8日付の上申書[20]によると、1875年(明治8年)9月20日、雲揚が清国牛荘へむけて航海中、飲料水の欠乏により探水のため贅月尾島沿いへ仮泊、翌21日やや移動して永宗城の上に鷹島を北西に望む位置に投錨する。同位置から探水或いは請水のために自ら端艇に乗りこみ、江華島に向かっている途中(同島南東端の草芝鎮沖にさしかかった際に)島に設置された砲台から突如砲撃を受けたので、急ぎ雲揚へ帰艦した。すでに本艦は号砲による警告暗令に応じるかたちで日本国旗を掲げており[注釈 9]、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した、云々と説明されている。
9月29日付の上申書[ソースを編集]

この公式報告書は日朝間の交戦がまるで一日の間に起こったかの如く誤解(実際には3日間)させるような記述がなされている他、地名の誤りなどが散見されるため史料の信頼性には疑義が指摘されていたが[注釈 10]、最近になって発見された事件から9日後に作成された9月29日付の上申書[21][22]によれば、江華島方面へサリー河を端艇で遡った動機部分が測量及び諸事検捜、且つ当国官吏へ面会し万事尋問するために、と10月の上申書の記述とは差異があるが、給水は朝鮮側の役人と接触して行われていたこともあり、また9月24日に「午前呑水ヲ積ミ」との報告もあるため、探水或いは請水のためと同意である。記録としては、一続きの事件として記述し、時間経過があやふやな10月の上申書に対し、砲撃事件が発生するまでの経緯説明の点、端艇で江華島の陣営近くまで遡航し、さらに奥(漢江方面)へと進もうとして砲台から砲撃されたと事件発生時までの状況がより詳しく記されているため、9月の上申書は時系列を明確にしたうえで報告内容もより詳細である[21][22]。ただし、冒頭にて「此段不取敢致御届候也(取り敢えずの報告致す)」との記述や本文中に井上自身のことを本来なら「本管」と記すところ「井上少佐」と記している点から本人以外の報告であったと考えられる。
戦闘の詳細[ソースを編集]

二つの上申書の差異は先に述べたようなものであるが、以下では基本的に9月29日付の上申書の時系列に添って戦闘の詳細を解説する[21][22]
【9月19日】 ─ 停泊投錨 ─


午後04時32分 サリー河.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度31分59秒 東経126度35分22秒 / 北緯37.533075度 東経126.589365度 / 37.533075; 126.589365口リエンチョン島(永宗島)の東端に永宗城北緯37度29分26秒 東経126度34分45秒 / 北緯37.49066度 東経126.579237度 / 37.49066; 126.579237(第一砲台)を視認し、贅月尾島北緯37度27分44秒 東経126度36分02秒 / 北緯37.462289度 東経126.60048度 / 37.462289; 126.60048沿いに投錨。

【9月20日】 ─ 事件発生 ─


午前08時30分 同所抜錨。

午前10時00分 やや移動し永宗城の上に鷹島北緯37度31分40秒 東経126度34分35秒 / 北緯37.527834度 東経126.576319度 / 37.527834; 126.576319を北西に望む位置に再投錨。

午後01時40分 同位置から端艇[注釈 11](井上艦長以下20名)を乗り出しサリー河を遡航して江華島に向け進む[注釈 12][注釈 13]


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