江戸
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武蔵国で多摩川を渡り荏原郡へ入り、東京湾の海岸沿いを品川を経て北上し桜田郷に入り、日比谷入江の北端に注ぐ平川の河口部にかかる高橋(現在の大手門橋もしくは平川橋の位置と推測される)を東へ渡り豊島郡(の後の江戸郷)へ入り、神田、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草と進み、隅田川を渡り下総国へ入り、常陸国へ至った。この平川沿いには早くから村ができていたようである[7]
江戸氏

平安時代後期の12世紀に、秩父氏の一族が、武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに進出し、江戸の地に居館を構えた(江戸重継[8]

江戸重継はこの地名を名乗りとした(江戸太郎を称した)[5]。その後の江戸氏の勢力伸長に伴い、この地は豊島郡江戸郷として認識されるようになった。

江戸重継の子である江戸重長1180年源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に帰属し鎌倉幕府御家人となった。
鎌倉時代

弘長元年10月3日1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、弘安4年4月15日1281年)に長重と同族とみられる平重政が作成した譲状[9]には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の神田付近と推定されている[5]

この頃の鎌倉から常陸国(さらに北上し奥州)へ向かう街道(鎌倉街道)は、律令時代東海道と同じ経路だった。

平川は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている[10]。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村および平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。

また、桜田郷は元々荏原郡に属したが、隣接する江戸郷と同じ豊島郡に属すると認識されるようになり、後世の文書記録から裏付けられる。両郡が一体として認識されるようになった原因は[5]、江戸氏が勢力下に入れたことが大きいと推測される。
室町時代

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は南北朝の騒乱において新田義貞に従って南朝方につくなどしたが、室町時代に次第に衰え、江戸郷(および桜田郷)を去り、戦国末期には多摩郡喜多見で活動している。

応永27年(1420年)紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区蒲田・六郷・鵜の木丸子や隅田川下流域の金杉石浜牛島、江戸郷の国府方柴崎、古川沿いの飯倉、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの渋谷、善福寺川沿いの中野阿佐谷にも江戸氏一族が展開した。

応永30年(1423年)には江戸氏一族とみられる江戸大炊助憲重が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしており、文書記録に残る。
太田道灌太田道灌

江戸郷(および桜田郷)から江戸氏が去った跡には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、桜田郷の麹町台地東端に江戸城を築いた。江戸城は、一説には康正2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという(『鎌倉大草紙』)。太田資長は文明10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代も平川日比谷入江へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に江戸湊(ただし『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、浅草湊品川湊と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。これらの湊は利根川(現在の古利根川中川)や荒川などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原西国方面に出る際の中継地点となった。

太田道灌の時代、長く続いた応仁の乱により荒廃した京都を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に城下町が形成された[11]吉祥寺は当時の城下町のはずれにあたる現在の大手町付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する法恩寺浄土寺も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と河越城を結ぶ川越街道や小田原方面と結ぶ矢倉沢往還もこの時期に整備されたと考えられ、万里集九宗祇宗牧など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている[12]

道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である上杉朝良長享の乱の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ朝興も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は高輪原の戦い後北条氏に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力(小弓公方里見氏)に後北条氏との対決を決意させたと言われている[13]。後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏千葉氏を統率していた。支城の支配域としては、東京23区隅田川以西・以南および墨田区川崎市多摩地区の各々一部まで含まれている。

従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌およびその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方[6]が登場するようになった。また、『吾妻鑑』における源頼朝入城当時の鎌倉に関する描写(治承4年10月12日条)がそのまま家康の江戸入城時の描写に引用されている可能性を指摘する研究者もいる[14]。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある[15]。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて歴史考古学による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている[12]

徳川時代.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに慶長見聞集の原文「江戸町の道どろふかき事」があります。


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