江戸
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『江戸図説』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所[注釈 1]、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。

町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことをうかがわせる書簡が残っている。1818年(文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの農地が存在し、また一部では町屋を形成していたと考えられている)。また1854年安政元年以降は新吉原品川・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。
幕末の江戸と明治初頭の東京

徳川幕府は実に260年ほども続いたが、幕末には内政でも外政でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。

1862年(文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである明治維新が行われ、1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書によって江戸は「東京」と改称され、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された。また天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。

明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年(1869年)に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、再び日本の事実上の首都となった。1871年廃藩置県が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。
歴史
平安時代

「江戸」という地名は平安時代後期に生まれたと考えられている。

隅田川が東京湾へ注ぐ河口部からは南西に位置する平川の河口付近(和田倉門付近で日比谷入江[4]に注いでいた)を指す小地名として生まれた[5]。概ね神田山(後の駿河台)の裾部から南へ江戸前島(後の江戸郷前島村)まで指す。

地名の由来は、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。また「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説[注釈 2][6]もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では今戸亀戸奥戸と称されている事から、「江の津」とする説[5]もある。

平安時代中期(930年代頃)に成立した『和名類聚抄』には、「江戸」という地名の記載は無くまだ発生していなかったと考えられる。地名の発生は、その後の平安時代後期と考えられ、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見である。

なお『和名類聚抄』記載の郷名として、武蔵国豊島郡に「湯島郷」(現在の文京区湯島)・「日頭郷」(同区小日向)があり、どちらかの郷内と考えられる。また平川(および日比谷入江)を挟んで西に隣接する荏原郡「桜田郷」が記載されている(千代田区霞が関の旧称である桜田に名が残り、太田道灌以降の江戸城が平川河口を見下ろす麹町台地東端に建てられた)。

律令時代東海道は、この地を通っていた。武蔵国で多摩川を渡り荏原郡へ入り、東京湾の海岸沿いを品川を経て北上し桜田郷に入り、日比谷入江の北端に注ぐ平川の河口部にかかる高橋(現在の大手門橋もしくは平川橋の位置と推測される)を東へ渡り豊島郡(の後の江戸郷)へ入り、神田、鳥越(現・鳥越神社付近)、浅草と進み、隅田川を渡り下総国へ入り、常陸国へ至った。


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