江戸開城
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^ 原口清「江戸城明渡しの一考察」(『名城商学』21巻2・3号、1971?72年)。慶喜恭順の条件は以下の通り。
慶喜若真ニ恭順恐入、奉待天譴候心底ナラハ、軍門ニ来リ而可拝事(もし慶喜に真実恭順の意思があり、天皇の処罰を受け入れる気があるなら、大総督府に出頭して大総督に拝謁すること)

城者迅速明渡シ可申事(江戸城は速やかに明け渡すこと)

軍艦不残可相渡事(旧幕府の軍艦は一隻残らず新政府に引き渡すこと)

旗下之者共不残向嶋ヘ移リ、謹可居事(江戸城下の幕臣は残らず向島東京都墨田区)へ移り、謹慎すること)

兵器・弾薬・砲銃等不残可指出事、外ニ斬首之幕吏百余位可有之事(兵器・弾薬類は残らず差し出すこと、また、100人程度の幕臣が斬首されるべきである)

^ 『大久保利通文書』二 慶応四年二月(日付不明)意見書
「一、恭順之廉ヲ以、慶喜処分之儀寛大仁恕之思食ヲ以、死一等ヲ可被減事
 一、軍門へ伏罪之上、備前ヘ御預之事
 一、城明渡之事。但軍艦鉄砲相渡候勿論之事
 右三ヶ条を以早々実行ヲ挙候様、朝命厳然降下、若シ奉ゼズンバ、官軍ヲ以テ可打砕之外、条理有之間敷奉存候事」。
^ その後近藤は4月3日に投降し、同25日板橋東京都板橋区)で処刑された。
^ 輪王寺宮が駿府へ赴いたことが記載されているため、2月21日以降に書かれたものと思われる。
^ この年寄は天璋院附きだったものの引退していた幾島と思われる。『天璋院様御履歴』「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」
^ これを受けて天璋院は、家中に対し静謐を保つよう御触れを出している。『天璋院様御履歴』「此度天璋院様より女中御使ニ而薩州先手隊長迄御嘆願御願之筋被為在候処、西郷吉之助より右御請申上候趣有之、大総督府伺済迄御討入御見合ニ相成候段、同人より相答候趣ニ而万々一不心得之者等有之候而者、御家之御一事ニも相成、御心痛被遊候御廉も相立不申儀ニ付、右等篤与相心得一統穏ニ人気も鎮り騒立不申、神祖以来之御家ニ御奉公与存、心得違等決而無御座様急度慎可相守段天璋院様御意ニ被為在候、右之通大奥より披仰出候間、向々江不洩様可被相触候」
^ 西郷は天璋院からの書状を読んで涙を流したという。「一新録探索書」(『肥後藩国事史料』)「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しツヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致」。
^ 『海舟日記』慶応四年三月十日条「山岡氏東帰、駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、且、総督府の御内書、御所置の箇条書を乞うて帰れり。嗚呼、山岡氏沈勇にして、その識高く、能く君上の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり。その御書付は、
一 慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せつけらるべき事
一 城明け渡し申すべき事
一 軍艦残らず相渡すべき事
一 軍器一宇相渡すべき事
一 城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事
一 慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事
一 玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相慎むべき事
右の条々実効急速相立ち候わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事」。
^ 『戊辰解難録』山岡鉄太郎書上「鉄太郎、謹みて承りぬ、但慶喜を備前に徙すとの一事は命を奉じ難し、といへるに、吉之助は朝命なりとて肯せず、鉄太郎乃ち、然らば試に先生と地を易へて論ぜん、島津公若し誤りて朝敵の名を蒙らんに、先生は其君を差出して安閑たるべきか、といふに及びて、吉之助黙然たりしが、少時ありて、よし、慶喜殿の事は吉之助きつと引受けて取計らふべしと答へ、乃ち大総督府陣営通行の符を与へて還らしむ」。
^ 3月12日付松平春嶽宛大久保一翁書簡から、山岡の江戸帰還が12日であると推測する説もある[15]
^ 実際に会談が行われた場所については異説もあり確証がない。勝の『氷川清話』では西郷は田町の薩摩屋敷に談判に来たとの記述がある。ところが、勝の日記『慶応四戊辰日記』には3月13日に「高輪薩州之藩邸」に出張したとの記述があり、翌14日にも「同所」に出張したとの記述があるためである。当時、高輪には薩摩藩下屋敷があり、田町には薩摩藩蔵屋敷があったが、二地点では2kmも離れている。14日の会談は13日と「同所」と書いてあるが、これは同じ薩摩藩邸という意味に過ぎず、13日は高輪の藩邸で14日は田町の藩邸で行われたものとみられている。なお、西郷隆盛の書による「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地」の記念碑は田町側に建てられている[19][20]
^ このとき勝は軍艦奉行並、西郷は第一次長州征伐軍参謀であった。
^ 前述13日説をとる「復古攬要」も、本文中にあるパークスの言葉中に「昨日ソンテイ(sunday)に有之候得共」とあり、実際には3月13日(洋暦4月5日)が日曜日であることから、この対話が14日(月曜日)に行われたことがうかがえる。
^ 『江城攻撃中止始末』「前に申上げた時の西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようということは、従前から会得して居るのである。然るに兵を鈍らしてはならず、また慶喜の恭順も立てねばならぬ。(中略)明日の戦を止むると云うは勝に対しては易き話である。唯官軍の紛紜を畏るることは容易でない。多分板垣などは如何なる異論を以て来るかも知れぬ。(中略)横浜パークスの一言を清が報じたので、西郷の意中は却て喜んで居るじゃろう」。
^ ただし、桑名藩は1月28日に桑名城を無血開城して(城と所領は尾張藩の管理下に入る)在国藩士は全員謹慎しており、家老酒井孫八郎からは松平定教(先代藩主の遺児)を新しい藩主に擁して恭順する旨の申入れが行われている。つまり、ここでの桑名はこうした情勢にもかかわらず新政府への謝罪・恭順の意思を示さない定敬(及びその近臣)のことになる。この当時の桑名藩本国の動静については、水谷 (2011)を参照のこと。
^ 大久保はさらに、この期に及んでなお宥和論をとる越前藩にすら疑心暗鬼を懐いていた。『大久保利通文書』二巻 慶応四年閏四月二日付 木戸孝允宛大久保書翰「越藩抔之内情甚可怪次第も有之、若一回動揺有之節ハ何れニ賊有るも被図不申候」。

出典^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、246頁〈征討大号令宣布ノ事〉以下
^ 『続徳川実紀』「慶喜公御実紀」明治元年正月廿三日条。
^ 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩 -敗者の維新史-』八木書店、2011年、179-180, 194-195頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 9784840620444。 
^ a b 『大久保利通文書』西郷隆盛 大久保利通宛書状(慶応四年二月二日付)「慶喜退隠の嘆願、甚以て不届千万。是非 切腹迄ニハ参り申さず候ては相済まず(中略)静寛院と申ても矢張賊の一味と成りて退隠ぐらいニて相済候事と思し召され候はゝ致方なく候に付、断然追討あらせられ候事と存じ奉り候」
^ a b 『大久保利通文書』大久保利通 蓑田伝兵衛宛書状(慶応四年二月十六日付)「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候。反状顕然、朝敵たるを以て親征と迄相決せられ候を、遁隠位を以て謝罪などゝ、益愚弄し奉るの甚舗に御坐候。天地容るべからざる之大罪なれば天地之間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」。
^ 『藤岡屋日記』慶応四年三月。
^ 「静寛院宮御日記」(『続日本史籍協会叢書』第2期1,2巻所収 東京大学出版会)ISBN 978-4-13-097801-9
^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、301頁〈親子内親王使土御門ふち上京ノ事〉以下、「十六日信篤ハ内親王哀訴ノ事ハ厚ク朝議ヲ尽クサルヘキノ旨ヲふちニ伝フ而シテ正親町三条実愛ハ口演書ヲ橋本実麗ニ授ケテ之ヲ内親王ニ致サシム其文ニ曰ク、此度の事ハ実ニ容易ならさる義ニ御座候へ共条理明白謝罪の道も相立候上ハ徳川家血食の事ハ厚思召も有らせられ候やにも伺候間右の所ハ宮ゑはしめ厚く御含あらせられ候やう存候事」。
^ 『海舟語録』などによる。
^ 『戊辰解難録』山岡鉄太郎書上「先日来静寛院宮・天璋院の使者来りて、慶喜殿恭順謹慎の事を歎願すといへども、唯恐懼するのみにて条理分らず、空しく立戻りたり」。
^ 岩下哲典『江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? 』(吉川弘文館)
^ 水野靖夫『定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟』(ブイツーソリューション)
^ 『海舟日記』慶応四年三月五日条「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。
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