江戸開城
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そして、それを携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日鳥羽京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。しかし戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。そのため淀藩津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。

新政府は7日徳川慶喜追討令を発し[1]、10日には慶喜・松平容保会津藩主、元京都守護職)・松平定敬桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を没収するなどの処分を行った[注釈 1]。翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督東久世通禧から諸外国[注釈 2]の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。
旧幕府側の主戦論と恭順論徳川慶喜

正月12日、品川に到着した慶喜は、翌13日江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。慶喜はひとまず14日歩兵頭に駿府(現静岡市)警備、15日には土井利与古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じ、17日には目付箱根碓氷の関所に配し、20日には松本藩高崎藩に碓氷関警備を命令。さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。

勘定奉行陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張。小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、戦力的に勝る徳川海軍駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう[注釈 3]。19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請をしている(後述)。続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた[2]若年寄 : 平山敬忠川勝広運陸軍総裁 : 勝義邦(海舟)、副総裁 : 藤沢次謙海軍総裁 : 矢田堀鴻、副総裁 : 榎本武揚会計総裁 : 大久保忠寛(一翁)、副総裁 : 成島柳北外国事務総裁 : 山口直毅、副総裁 : 河津祐邦

後に若年寄には高家今川範叙も兼任するが、このうち、庶政を取り仕切る会計総裁・大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。27日、慶喜は徳川茂承紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。さらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分[注釈 4]、翌日には同戦いによって新政府から官位を剥奪された松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城への登城を禁じた[注釈 5]。12日、慶喜は江戸城を徳川慶頼田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺大慈院[注釈 6]に移って、その後謹慎生活を送った。


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