江戸時代
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他の呼称として徳川時代、徳川日本[1]、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。江戸時代という名は、江戸将軍常駐していたためである。
時代区分 1865年慶応元年)または1866年(慶応2年)にフェリーチェ・ベアト愛宕山より撮影した江戸のパノラマ。人工着色した5枚の写真をつなげて制作された。

日本史上の時代区分としては、安土桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。

江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日慶長8年2月12日)に徳川家康征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから[注釈 1]1868年10月23日慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治改元されるまでの265年間である[注釈 2]
沿革
初期・前期(1603年 - 1690年ごろ)「武断政治」および「文治政治」も参照徳川家康

徳川家康征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた[3]

設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した[4]。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都大坂長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。皇居(旧・江戸城)富士見櫓、1659年(万治2年)築造。

また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長14年7月25日1609年8月24日)付)

また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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