江戸幕府
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大坂は太田牛一が『信長公記』巻13で「そもそも大坂は日本一の境地」であり、奈良京都に近く四方を山に囲まれ要塞堅固なうえ、朝鮮南蛮から貿易船が来航し、五畿七道の産物が集まり経済力の秀でた都市、と記すように近世初頭の日本において最重要の地であった[11]永禄13年/元亀元年(1570年)、織田信長西国攻略の拠点として大坂本願寺に土地の明け渡しを求め、これを拒否した本願寺と10年間にわたって戦争が行われ[12]、信長の後継者の豊臣秀吉は政治・経済・対外交流・軍事の要衝である大坂を本拠として天下統一を成し遂げていた[13]。また秀吉は大坂・京都・伏見の3都市によって、中世の荘園制に立脚した市場構造とは異なる新たな中央市場圏を確立しており、その重要性はさらに増していた[14]。だが、この最初の大坂幕府構想は翌元和2年(1616年)の家康の死没により中絶することになった[8]

一度は断念した幕府の大坂移転構想だったが、公武合体政権の樹立を念願とする秀忠によって再び動き出した[9]豪壮華麗、石積みの芸術と評される徳川期大坂城の石垣[15]。近世城郭石垣の技術的頂点に位置する[16]

元和5年(1619年)、大坂城代を務めていた松平忠明大和国郡山藩に国替され、幕府は大坂を直轄地とした[17]。その後藤堂高虎小堀遠州の主導のもと大坂城を幕府の新たな拠点とすべく再築が進められ[18][19]、長期に及ぶ天下普請の末寛永5年(1628年)に新たな大坂城が完成した[20]

一方で朝廷と幕府による公武合体構想は迷走していた。幕府による公武合体構想は既に家康の時代から秀忠との女、和子を後水尾天皇に入内させる計画が進んでいた。家康は後水尾天皇と和子の間に生まれるであろう皇子に皇位継承させ、徳川家が天皇の外戚になろうと目論んでおり、慶長19年(1614年)には和子の入内が決定した。しかし元和2年の家康の死没に続いて元和3年(1617年)の後陽成上皇の薨去で和子の入内は一旦延期されることになった[21]

その後、和子の入内が元和5年(1619年)に行われることが改めて決定したが[21]、元和4年(1618年)後水尾天皇と四辻与津子の間に後継者となる第一皇子・賀茂宮が誕生していた事実は徳川家に打撃を与え[22]、再び入内が延期された[21]徳川和子

元和6年(1620年)、ようやく和子の入内が実施され寛永3年(1626年)11月には第二皇子・高仁親王が誕生した。既に第一皇子の賀茂宮は元和8年(1622年)に夭折しており、徳川家が天皇の外戚の地位を得る可能性が高まった[23]

寛永4年(1627年)4月、後水尾天皇は高仁皇子が4歳になれば譲位する考えを明らかにした[24]。更に高仁親王の天皇即位とセットで秀忠・家光父子の大坂城の入城が寛永6年(1629年)に予定され、公武合体政権構想の実現は目前に迫っていた[17]

しかし寛永5年(1628年)6月、高仁親王が3歳で夭折。和子がこの年に出産していた皇子も9月に亡くなった。寛永6年(1629年)11月、後水尾天皇は和子との間に誕生していた明正天皇に譲位したが、女性天皇であったため徳川家の天皇家外戚の地位は一代で終わることが確定し、さらに公武合体構想の推進者である秀忠が大坂城再築後3年で亡くなってしまった[25]。結果、家康・秀忠が2代にわたっての念願であった公武合体政権構想は頓挫し[17]、徳川幕府は先進地の畿内を本拠地とすることを断念し、後進地域に本拠を据えざるを得なくなった[26][注釈 2]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ これに対して、財政・司法・行政などの日常の政務に従事する、寺社勘定の三奉行及びその配下の職や将軍家の家政に関わる職を役方と言った。ただし、番方と役方とは対立した存在ではなく、両者の間には身分の相違があるものでもなく、役方の頭領(奉行)の多くは番方出身者で占められているように人事の交流がみられた。
^ この東国の後進性の問題はなかなか解消されず、江戸中期になっても依然として幕府財政は上方経済に依存していたことが指摘されている[27]

出典^ 明治維新史学会 2011, pp. 3?5.
^ “幕府(ばくふ)/ 時代劇用語指南(2008年5月29日)”. 山本博文 (解説) / 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス. 2021年11月15日閲覧。


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