江戸幕府
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なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された政体書によって設けられ、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃止された。
統治機構江戸城天守

江戸幕府では権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる大老、その補佐役である若年寄譜代大名から選任され、大目付・三奉行(寺社奉行町奉行勘定奉行)等の要職には譜代あるいは旗本が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末の慶応の改革では老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・陸軍海軍の各総裁を専務する等の改革が行われた。

幕府の政策決定は、将軍・幕閣(老中・若年寄)・実務吏僚(大目付・三奉行等)、取次・補佐を行う将軍の側近である御側用人御側衆、幕閣のサービススタッフである奥右筆同朋衆により運営された。

基本的な流れとしては実務吏僚から挙げられた議案を幕閣が審議した上で、側近を介して将軍が決裁を行った。また親政や側用人政治の場合は、幕閣を経ずに直接議案が側近に持ち込まれ、将軍が決裁するため幕閣の役割は形骸化した。これとは別に将軍が直接意見を聞くため、実務吏僚を呼び出して直接諮問する事もあった。
軍事制度

軍事制度は徳川家当主・征夷大将軍として江戸在住の旗本、及び各地に封じられた譜代大名や外様大名を指揮・統率した。番方[注釈 1]と呼ばれる平時編制の直轄部隊として、五番方(書院番小姓組大番新番小十人組)や、徒組・百人組先手組持組を有した。大番・書院番は単独の備として運用され、その他は将軍や大御所らの旗本備を形成した。有事には軍役として諸大名・旗本を動員して数十万の軍勢を揃えた。幕府直轄の軍事施設としては江戸城以外に大坂城・駿府城・甲府城等があり、譜代大名や旗本による城代・定番・在番・加番・勤番が置かれた。

有事の際には該当地域に10万石前後の譜代大名がいる場合は周辺の外様大名を指揮下に置くが、いない場合は江戸から上使として指揮官が派遣された。しかしながら外様大名の石高が譜代大名より大きい場合は、その統制に困難を生じることがあった。前記の場合は何れも幕府の裁可を必要としたが、大坂城代は有事の際には独断での行動が特に許されていた。

これらの軍事制度は、島原の乱前後までは大砲の導入等の軍事改革が行われたが、太平の世によりその必要性も減少した結果、17世紀前半の軍制を19世紀まで維持し続けた。しかし外国勢力の来航による軍事危機に直面した幕末には、戦力の骨幹を成した侍の弛緩・疲弊、財政悪化や社会の変化・疲弊による従来の動員制度の破綻、制度・武器・教育といったあらゆる面での遅れから、西洋式軍隊の導入が唱えられ、新たに幕府海軍幕府陸軍が創設された。ただしこれら新たな軍隊と旧来の番方は併存した状況が続き、後者の実質的な解体は幕府が終焉を迎える直前の慶応の改革時になった。
財政

家康の時期に、勘定奉行が取り仕切る勘定方が設置されたが財政は安定しておらず、赤字などによりしばしば幕政改革が行われた。

幕末の1866年(慶応2年)には既にイギリスオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州征伐のため、同年同銀行と600万ドルの借款契約を締結した[3]
大名「近世大名」も参照

大名は以下のように分類された。

親藩:徳川家の一族

譜代大名関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名家

外様大名:関ヶ原の戦い以降から徳川家に仕え始めた大名家(関ヶ原の戦いで西軍として戦った豊臣系大名も含む)

この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・執権すらしのぐほどの有力御家人守護大名が要職に就いていた。また、豊臣政権末期の五大老制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。

しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の前田家や、御三家御三卿よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である井伊直弼は強権をもって反対者を弾圧したが、その報復である桜田門外の変に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、大政奉還及び江戸開城を迎える事となった。
江戸幕府の役職
大名役

御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。

大老・大老格(幕府成立当初は大政参与も置かれたが後に大老と統一)

老中老中格

側用人御側御用取次

以上が幕政の首脳。このうち「幕閣」と呼ばれたのは大老・大老格と老中・老中格で、側用人・御側御用取次は時代や個人によってその権限に大きな差があった。

京都所司代

大坂城代

寺社奉行

若年寄

奏者番

旗本役「旗本#江戸幕府の旗本」も参照

諸太夫役と布衣役を『天保年間諸役大概順』に拠って列記、これに支配関係と伺候席を参考として添えた。なお『諸役大概』に記載があるものの、それが役職であるか世襲職であるかが不明瞭なもの (林家が代々勤めた大学頭など)についてはこれを省いた。

側衆 (老中支配)

高家 (老中支配、雁間詰)

駿府城代 (老中支配、雁間詰)

伏見奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

留守居 (老中支配)

大番頭 (老中支配、菊間詰)

書院番頭 (若年寄支配、菊間詰)

小姓組番頭 (若年寄支配、菊間詰)

御三卿家老 (老中支配、芙蓉間詰)

大目付 (老中支配、芙蓉間詰)

町奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

勘定奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

旗奉行 (老中支配、菊間詰)

作事奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

普請奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

小普請奉行 (若年寄支配、中之間詰)   

甲府勤番支配 (老中支配、芙蓉間詰)

長崎奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

浦賀奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

京都町奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

大坂町奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

駿府定番 (老中支配、芙蓉間詰)

禁裏付 (老中支配、芙蓉間詰)

仙洞付 (老中支配、芙蓉間詰)

山田奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

日光奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

奈良奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

堺奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

駿府町奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

佐渡奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

新潟奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

羽田奉行 (老中支配、芙蓉間詰)

西丸留守居 (若年寄支配、中之間詰)

鉄砲百人組頭 (若年寄支配、菊間詰)


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