江戸川乱歩
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本名は平井 太郎(ひらい たろう)[1]日本推理作家協会初代理事長位階正五位勲等勲三等。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポー[2][※ 3]のもじり。

大正から昭和期にかけて活躍し、主に推理小説を得意とした。また、第二次世界大戦後は推理小説分野を中心に評論家や研究家、編集者としても活躍した。乱歩の寄付で創設された江戸川乱歩賞が推理作家の登竜門となるなど、後世にも大きな影響を与えた。自らも実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。
経歴
生い立ち乱歩生誕地碑広場

1894年(明治27年)、三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男ときくの長男として生まれる(本籍地は同県津市)。平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東郷士だった。のちに伊勢津藩藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げた。

2歳の頃父の転勤に伴い三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年、愛知県名古屋市に移る。以降、大人になっても引越しを繰り返し、生涯で46回引っ越した。

小学生の頃に母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』(ウィリアム・ル・キュー原作)が、探偵小説に接した最初であった。中学校では、押川春浪黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済学科に進学。在学中に(メルヴィル・D・ポーストに先んじた世界初のトリックという意味で)傑作の処女作『火縄銃』を執筆。博文館の雑誌『冒険世界』に投稿するが、掲載はされなかった[4]。卒業後は貿易会社社員、古本屋支那そば屋など多くの仕事に勤務。
就職と結婚

1917年(大正6年)11月、三重県鳥羽の鳥羽造船所電機部(現・シンフォニア テクノロジー)に就職。庶務課に配属されたが、技師長に気に入られ、社内誌『日和(にちわ)』の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に回された[5]。無断欠勤などもあったが許されていたという。『日和』では編集のみならずイラストも描いている[6]。この会社は1年4ヶ月で退職するが、この時期の体験が『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』の参考になったという[5]

1919年、読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚する[6]
作家デビュー

1923年(大正12年)、森下雨村小酒井不木に激賞され[7]、『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。欧米の探偵小説に強い影響を受け[8]、本格探偵小説を志す一方で『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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