現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している。
関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども宮内庁管理のため、重要文化財などには指定されていないが現存する。
他の遺構
川越の喜多院と氷川神社には、3代将軍家光誕生の間とされる江戸城の江戸期移築建物が残る。移築建物と川越城御殿の二つの御殿が見られる。
近年[いつ?]、都市再開発の動きに伴い、丸の内や、霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。
1910年(明治43年)に蓮池御門を名古屋城正門として移築したが、1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失し、後に復元された。
文部科学省構内から発見された江戸城外堀跡の石垣(2004年6月13日撮影)
復元「江戸城再建論」も参照
1964年(昭和39年) 北ノ丸の清水門・田安門の上部が復元された。
東京大空襲によって焼失した大手門が、1967年(昭和42年)に復元された。
1968年(昭和43年) 二ノ丸跡を小堀遠州の回遊式庭園に復元し、諏訪の茶屋を吹上御苑より移築した。
江戸城障壁画下絵(狩野晴川院筆、東京国立博物館蔵)は、弘化度本丸御殿再建の際に描かれた障壁画の下絵集であり、御殿平面図と併せることで幕末期の御殿の内装を知ることを可能にした。
皇居東御苑の江戸城 復元模型宮内庁は、設計・製作費約5000万円、展示室建築費約5400万円の計約1億400万円と約2年間の期間をかけて、寛永度天守の1/30スケールの復元模型を製作した[38]。2020年9月より、皇居東御苑の本丸地区において公開している[39]。
現在、民間ではNPO法人「江戸城天守を再建する会」が、観光庁が推進する「観光立国」のシンボルとすべく、1657年(明暦3年)に焼失した天守の再建を目指して活動し会員を募っている。2010年(平成22年)には、当時の資料を基にした寛永度天守の詳細なCG復元図を作成した[40]。しかし、現存の天守台に天守が建ったことはなく、寛永天守を再建するにも寛永天守があった頃の天守台は現存天守台よりも1間から1間半ほど高い[41]。
2014年(平成26年)、第三者機関の調査研究により、皇居東御苑での天守再建は、NPO法人では、不可能に近いと検証された経緯を踏まえて、2015年(平成27年)並びに2016年(平成28年)に行われた「江戸城天守を再建する会」の通常総会において、新事業主体の一般財団法人を設立し、公益財団法人を目指すことが決議された。2017年(平成29年)1月、前年の決議に基づき一般財団法人「江戸城天守再建・歴史文化まちづくりルネッサンスの会(現・江戸東京歴史文化ルネッサンス)」が設立された[42][43]。一方、NPO法人「江戸城天守を再建する会」は世論喚起を目的に存続することが同年3月の総会で決議された[42][44]。同年10月、一般財団法人は、天守単体の再建は国際憲章や法律の制約並びに学術的、歴史的、文化的観点から極めて難題が多く、行政、学識者を含めた広範囲な合意形成は困難であるとの認識を踏まえ、天守単体の再建から本丸御殿や城門等江戸城の全体整備へと、新たな事業・運動への構想転回を行った[43][42]。他方でNPO法人は、皇居東御苑の本丸地区が皇室行事の大嘗祭が行われる場所であることから、本丸御殿の再建構想には同意せず、天守に絞った再建を目指す活動をすることを表明。以後、両団体はそれぞれ独自に活動を進めることになった[44]。
2019年(令和元年)、一般財団法人「江戸東京歴史文化ルネッサンス」は、天守の復元について、調査を踏まえた声明を発表し、国際基準及び諸々の法律並びに歴史文化的、理念的、技術的課題から、皇居東御苑の台座の上に天守を復元することは不可能に近く、NPO法人などは天守復元に関するそうした諸問題を社会一般に開示することが求められている旨を述べた[31]。
現地情報
所在地
東京都千代田区千代田(千代田は全体が皇居の敷地内の為、一般参賀などを除き部外者の自由な立ち入りは出来ない)
交通アクセス
皇居東御苑へ徒歩圏の駅は竹橋駅(東京メトロ東西線)、大手町駅(東京メトロ各線・都営三田線)、東京駅(JR東日本在来線・新幹線各線および東京メトロ丸ノ内線)、東京メトロ千代田線二重橋前駅など。皇居外苑や皇居ランニングコースともなっている公道上からも、かつての江戸城を望見できる。
その他
静岡県東伊豆町では、江戸城に使う石を切り出し港まで運ぶ様子を再現した「御石曳き」が行われている。
2017年(平成29年)2月8日、島根・松江城前の松江歴史館で『極秘諸国城図』が見つかり、その中には家康が築城した慶長期の江戸城を描いた最古級の平面図「江戸始図(はじめず)」縦27.6 cm、横40cmもあった[45][46]。この絵図により、慶長期の江戸城天守は、姫路城のような連立式で、本丸には幾重にも枡形が設けられていたことが分かった。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 今の梅林坂に当たる。社は江戸時代に城外の平河門外、次いで麹町に移されて平河天満宮となった。道真崇拝や梅との関わりについては「天満宮」「菅原道真#飛梅伝説」を参照。
^ このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。なお、家康の家臣である松平家忠の日記(『家忠日記』)によれば、実際の入城日は7月18日であったという[17]。
^ 従来、徳川家康入部前の江戸が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、実際には荒川や入間川などの関東平野一帯の河川物流と東京湾の湾内物流の結節点としてある程度は栄えていたとされる。また、なんらかの戦略的・経済的な価値がなければ、徳川氏もそこを本拠に選ばなかったはずである。また、柴裕之は小田原攻め中に秀吉が江戸城に自らの御座所を設ける構想を示したとする文書(『富岡文書』)の存在を指摘し、秀吉が関東・奥羽統治の拠点として江戸城を高く評価していたとする指摘をしている[18]。また、鎌倉に関する研究において、福島金治は『吾妻鏡』において源頼朝が鎌倉に入った当時の鎌倉の姿の描写(治承4年10月12日条)が徳川家康が江戸に入った時当時の江戸の姿に引用されている可能性を指摘している[19]。