江戸城
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1889年(明治21年)になると、測量事務が大日本帝国陸軍参謀本部に、天体観測は東京天文台に移管されたため、当該建物は以後中央気象台の風力測定のための施設となった[26]。風力測定台、風力測定所、測風塔、風力塔と呼ばれた当該建物は、中央気象台が1920年(大正9年)に旧本丸跡庁舎から麹町元衛町庁舎に移転し、当該地に新たな風力測定施設が建てられた後も1923年(大正12年)又は1926年(大正15年)頃まで残されていた[27]

現在、民間では天守の木造復元を目的とするNPO法人江戸城天守を再建する会」が活動している。しかし、天守復元には文化庁の許可が必要であり、文化庁は「現存の天守台に天守を復元することは、史実との整合性、文化財保護の観点から課題がある」と認識していること[28]、天守台がある皇居東御苑宮内庁が管轄する皇室用財産であり、天守復元には宮内庁の同意も必要であるが、宮内庁は「武家の象徴である江戸城の遺構を皇居内に復元することには慎重な検討が必要」と考えていること[28][29]、そのほか、建築資金の確保や、当時の建築様式で建造する際の耐震の問題などがある[28]。なお、2017年(平成29年)時点での政府見解は「皇居東御苑は、大嘗祭を始めとして皇室行事が行われる皇居の一部分を成している地域であり、現在の皇室の利用状況を考えれば、皇室用財産としての供用を見直すことは当面考え難い」である[30]2019年(令和元年)には、一般財団法人江戸東京歴史文化ルネッサンス」が天守復元に関して調査を踏まえた声明を発表し、ヴェネツィア憲章国有財産法文化財保護法建築基準法消防法バリアフリー法などの観点から「皇居東御苑に現存する台座の上に天守を建築することは極めて難題が多く不可能に近いと言わざるを得ない」と述べた[31][32]。また「東御苑の台座の上に天守建築を標榜し、世論を喚起し、会員や市民から浄財(会費や寄付)を得ている法人や個人は、前述した天守再建についての具体的な問題指摘に対しての責任ある答えを速やかに、社会一般に公開することが求められていることは言うまでもない」と述べ、天守復元の広報活動において、復元に関する諸問題の公表が十分に行われていない現状に懸念を示した[31]

現在の本丸天守台。

再建天守計画図(南面図)。

再建天守計画図(東・西面図)。

天守の代用とされていた富士見櫓。

大正頃の本丸天守台。天守台の上には中央気象台の風力測定施設が置かれていた。

慶長度天守
天守台は白い御影石が用いられ(『慶長見聞集』)、1606年(慶長11年)にまず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。翌慶長12年に、自然石と切石の間に自然石2間が追加され高さ10間、20間四方となる(『当代記』)。位置は現在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西側二重櫓をつなぐようにして天守曲輪があった(『慶長江戸絵図』)[注 9]。ただし当時の本丸は現在の南側3分の2程度であったため、当時の地勢では北西にあることになる。天守は同年中に竣工し、1階平面の規模は柱間(7尺間)18間×16間、最上階は7間5尺×5間5尺、棟高22間半(『愚子見記』)、5重で鉛瓦葺(『慶長見聞集』)もしくは7重(『毛利三代実録考証』)、9重(『日本西教史』)ともある[注 10]。慶長度天守の復元案は『中井家指図』を基にした宮上茂隆の考証によると、天守台は駿府城淀城と同じく20間四方、高さ8間の自然石による広い石垣の上に、それより一回り小さい天守地階部となる高さ2間の切石による石垣が載っている2重構造で、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型としている。駿府城などとは異なり、自然石と切石の間が狭いので多聞櫓などで囲われてはおらず、天守台の周りには塀だけがあったと思われる。廻縁・高欄はなく、また最上階入側縁のみが6尺幅となっている。白漆喰壁の鉛瓦で棟高は48メートル、天守台も含めれば国会議事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敵した。作事大工は中井正清としている。一方、内藤昌は『中井家指図』は元和度天守のものとしており、慶長度天守は5重7階、腰羽目黒漆、廻縁・高欄の後期望楼型であったとしている。作事大工は三河譜代の大工木原吉次、中井正清も協力したとする。城郭研究者・西ヶ谷恭弘は、天守台の構造は宮上説と同じであるが、天守は後期望楼型とする大竹正芳の図を宮上説とは別に紹介している。また、三浦正幸門下の金澤雄記は20間四方は天守台の基底部として、自然石と切石が一体の天守台とそこから直接建つ名古屋城天守を基にした後期望楼型の天守を考証している。その後、三浦正幸は『津軽家古図』を慶長度としている[注 11]。内藤案以外は石垣・壁・屋根に到るまで白ずくめの天守であり、『慶長見聞集』『岩渕夜話別集』でも富士山や雪山になぞらえている。この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は御殿の拡張が必要となった結果で、宮上茂隆はこの初代天守は縮小した上で大坂城に移築されたとしている。
元和度天守
元和度天守は、1622年(元和8年)から翌年にかけて天守台普請とその上屋(天守)の作事が行われた。位置は本丸東北の梅林坂にあった徳川忠長屋敷を破却し、その跡地に建てた(『御当家紀年録』)、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。加藤忠広浅野長晟の手による天守台の規模は慶長度の3分の1、寛永度天守と同様に南側に小天守台があり(『自得公済美録』)、高さも7間に縮小されている。天守内部には東照宮があったとされている[注 12]。天守の構造は、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型とされ、天守台を含めた高さは約30間(約55メートル)とされる。外観や諸構造については、諸説ある。
宮上茂隆案
宮上案では、旧津軽家の『江戸御殿守絵図(津軽家古図)』を比定し、屋根は銅瓦葺、壁は白漆喰としている。寛永度天守との違いは各破風の下に張り出しが設けられているのが特徴で、これは作事に当たった譜代の鈴木長次、木原家の下にいる三河大工に見られる意匠としている。
内藤昌案
内藤案は、前述の通り『中井家指図』を比定し、一部の破風が異なる以外は寛永度天守とほぼ変わらない。三浦案も白漆喰壁で銅瓦葺でない以外は内藤案と同様の見解を採っている。
西ヶ谷恭弘案
西ヶ谷案は『武州豊島郡江戸庄図』より初重を2階建であったとしている。また、黒色壁でもあったとしている。元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。この動機も秀忠・家光の親子関係に起因するともいわれるが詳らかではなく、ほかに仙台城への下賜説、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説がある。

『中井家指図』(慶長度または元和度天守とされる図面)

『江戸御殿守絵図』(元和度天守とされる図面)

寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(『黒田家続家譜』)。材質は伊豆石。小天守台が設けられているが、小天守は建てられていない。これは階段の踊り場のような意味で造られたからである。基本的な構造は現在の天守台とほぼ同じであるが、大坂城と同じように東側の登り口以外に西側にも橋台と接続する形で出入口が設けられていた。構造は5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が施された銅板を張り、屋根は銅瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30間、下総からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広1657年(明暦3年)に明暦の大火が発生した際、閉じられているべき二重目の銅窓が過失で開かれていたがために、城下町からの飛び火が天守を全焼させてしまった。焼失後、寛永度と同様の天守を再建する計画があって、それが簡単に立ち消えるものでもなかったことから、提出された数多くの資料は大切に保管され続ける運びとなった。これが幸いし、確定的な図面が現代まで遺されることとなった。このような事情により、正確な姿が判明している。

規模…「 」内は柱間(7尺間)、桁行・梁間は京間

地階…「12間×10間」

一重目…「18間×16間」 桁行29間2尺9寸×梁間27間1尺9寸、柱数191本

二重目…「15間×13間」 桁行16間1尺×梁間24間、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)

三重目…「12間×10間」 桁行13間2尺5寸×梁間11間1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)

四重目…「10間×8間」 桁行10間5尺×梁間8間4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)


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