1868年(慶応4年) 3月、戊辰戦争で優勢となった新政府の東征軍が迫る中、幕臣・勝海舟と東征軍参謀・西郷隆盛の会談により江戸城への総攻撃が中止された[7]。江戸開城により徳川家は江戸城から退出し、代わりに東征軍大総督有栖川宮熾仁親王が入城した[2]。そして、京都から明治天皇が行幸した折の居所「皇居」となり、短期間だが東京城と改名され[8]、その後は皇居、宮城(きゅうじょう)として使われている(東京奠都)。現在は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は、宮内庁の管轄下にあり、書陵部・楽部の庁舎などがあるが、皇居東御苑として、宮中行事に支障のない限り一般にも公開されている[9][10]。平成以降、皇位継承に伴う重要儀式「大嘗祭」の会場である「大嘗宮」は、本丸の跡地に設営されている[11][12]。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は、環境省所管の国民公園として開放されている[13]。
城跡の一部は国の特別史跡に指定されている[14]。
歴史[ソースを編集]
江戸(武蔵国豊島郡江戸郷。現在の東京都区部の一部)は、元来、西に平川(日本橋川の前身で日比谷入江に注いだ)、東に神田山(駿河台)に挟まれた地を指した。浅草方向へ向かう古代の東海道(常陸国へ至る)が平川河口部を通過していた。
この地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継で、この地名を名乗りとした。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸氏の居館は、後世の江戸城と同じ位置(麹町台地東端)に置かれたとの説がある。
これに対し、歴史学者の山田邦明は、江戸氏の居館は名乗り通りに豊島郡江戸郷内であり、後世の江戸城が築かれたかつての荏原郡桜田郷に存在することはあり得ないと論じた。山田は館の所在地を現在の水道橋付近と推定した。
なお、桜田郷に関しては室町時代前期の応永30年(1423年)に江戸氏一族である江戸大炊助重継が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしていることから、鎌倉時代以降の江戸氏の発展によって江戸郷に隣接する桜田郷も江戸氏の支配下に置かれ、その後桜田郷が豊島郡の一部として認識され、更に江戸郷を中心とした「江戸」の一部になったと推測されている[15][16]。
築城[ソースを編集]
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落し江戸郷・桜田郷から退去したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に、江戸城を後世と同じ位置に築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。