江戸の火事
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^ 大火については『江戸の火事』『東京災害史』「江戸災害年表」などによる。
^ お七の一家がこの火事で焼け出され、避難場所となった寺で見初めた寺男に対する生娘の恋心から、また大火事で焼け出されれば男に会えると後日自ら放火に及んだ(この放火による火事はぼやで消し止められたとされる)ことからこの通称がついた。この大火の原因がお七の放火にあるのではない。
^ 通称・別称は、上野寛永寺根本中堂に掲げる東山天皇の勅額が江戸に到着した日に発生したため。
^ 通称は、火元に牛車の運送を扱うものが住んでいたため。
^ 神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどだった。
^ 『』内の文章には、『火災都市江戸の実体』 pp.85 - 90の記述から三条件の文章を引用した。
^ 幕府の調査による享保6年の町方人口50万に、武家人口の推定である50-70万とその他(出家者・山伏・吉原関連など)の人口を考慮した推定値[14]。
^ 内藤昌の研究によれば、明治2年(1869年)の時点で江戸の総面積に占める割合は、武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%であった[14]。
^ 江戸時代後期に編纂された『徳川実紀』では、使用例がない時代の記述も「火賊」の表記で統一している[15]。
^ 『東京市史稿』による。この2年間が突出して多く、捕らえられた102人には無実のものが含まれていた可能性も高い[16]。
^ 天和3年(1683年)正月の放火で捕らえられた「はる」という下女の供述。火焙りとなった。『御仕置裁許帳』によれば『(前略)到検議候処ニ、眞木之燃杭を持、雪隠え火を付申候、同類も無之、主え意恨有之候て付候にても無之、物取候ニても無候、不斗火付申所存、付候由申ニ付、籠舎、右之者、亥二月九日於浅草火罪』とある[17]。
^ 消火活動の際、本来なら焼けるはずのない場所へ、火をまわして火事を拡大する行為をさす。
^ 1月の平均湿度は、東京49%であり、日本海側の金沢75%は措くとしても、三都の京都66%、大阪61%と比較しても、著しく低い。強い北西季節風(伊吹おろし)で有名な名古屋64%と比較しても、低いことが分かる[19]。
^ のちに定火消は10組の編成となり、江戸城北西以外にも配置されていく。
^ 現在では春一番と呼ばれることもある、春先の強い南風・南西風は、江戸時代の江戸では、むしろ気象学的に的を射て「富士南風」と呼ばれた。この富士南風も、大火の原因の一つとされている[20]。
^ 原因として、江戸時代初期にはまだ戦国時代の遺風が強かったことがあげられる[23]。
^ 「消防組織」節以下に含まれる記述は、「江戸火消制度の成立と展開」『江戸の火事』『江戸の火事と火消』などを参考としているが、ページ表記などの脚注は省略した。より詳しい記述のある火消の項目を参照。
^ 戸田茂睡の『御当代記』に、中山勘解由による取り締まりでは多くの無実のものが自白させられたと記され、当時から冤罪の多さが知られていた[24]。
^ 町触が出されるまでは、街路両側の建物から庇が京間1間(約1.97m)ずつ突き出ている例もあった[29]。
^ 明暦の大火以前にも、慶安2年(1649年)の地震後に、家屋が倒壊したのは屋根が瓦葺で重いためであるとして、禁止されたことがある[31]。
^ 屋根に牡蠣の貝殻を敷き並べたもの。飛び火を防ぐ効果があった。
^ 自宅に浴室を設置すれば熱源が増え、それだけ失火の危険性が高まる。世間からも火元と疑われるため、避けられていた[33]。
^ ただし、暮六つ以降でも湯が冷めるまでの間は入浴が認められていた[34]。
^ この凧が江戸城への放火を狙ったものだったのかは不明である[35]。
^ 火事場にいてよいのは、火消と親類家中のみと定められていた。明暦の大火後には、制止を聞かないものは斬り捨てて構わないとされている[36]。
^ 『絵本江戸風俗往来』の記述による[39]。
^ 加藤曳尾庵『我衣』による。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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