江戸の火事
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江戸城の火災

1639年(寛永16年) - 本丸御殿を焼失、所々火消編成の端緒となる

1657年(明暦3年) - 振袖火事(上述)、天守、本丸、二の丸、三の丸の各御殿を焼失

1747年(延享4年) - 二の丸御殿焼失

1844年(弘化元年) - 本丸御殿、大奥を焼失

1852年(嘉永5年) - 西の丸御殿を焼失

1859年(安政6年) - 本丸御殿を焼失

1863年(文久3年)- 本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失

1867年(慶応3年)- 二の丸御殿を焼失(この年、大政奉還

火事の原因

火事の原因には、調理や照明用に火を使用することによって発生する失火、様々な動機による放火などがあった。江戸の大火が他の大都市に比べて多かった理由としては、膨大な人口が居住することによる建物の密集や困窮した下層民の存在、江戸の独特な気象条件などがあげられる。

西山松之助は火事の原因について、「江戸には、大火を喜ぶ住民がかなりたくさんいたのではないかと思われることについて」「大都市江戸の統一的政治体制の欠如が多くの大火を頻発させた理由の一つであることについて」「江戸町人は、火事は当然で、江戸生活では、類焼は致し方のないこと、自火でなく類焼でよかった、と考えたことについて」と三条件をあげて考察している[注釈 10]

斎藤修(比較経済史)は、江戸は「裏店の世界」であり、独身男性の長屋暮らしが多く、の寝煙草により火元管理が難しかったことを挙げた上で、大阪は「商家の世界」であり、商家に住み込む丁稚手代らに厳しく火の用心をたたきこんでいたため、火事が少なかったと指摘している[13]
人口増加徳川家康詳細は「江戸の人口」を参照

徳川家康江戸幕府を開くと、江戸城周辺には大名旗本の屋敷が設けられ、多くの武士が居住するようになった。やがて武士の生活を支える商人・職人が町人として流入し、江戸の人口は急速に増加していく。寛永17年(1640年)ごろに約40万であった人口は、元禄6年(1693年)には約80万、享保6年(1721年)にはおよそ110万に達していた[注釈 11]

広大であった武家地に対し町人地の面積は狭く、人口の増加により町人地の人口密度は極めて高くなっていった[注釈 12]。町人の住居は狭い地域に密集して立ち並ぶようになった。
放火

江戸の火事の原因としては、放火(火付け)が多く記録されている。当事の放火犯は、「火付」「火附」「火を付候者」「火賊」などと記された[注釈 13]。捕らえられた放火犯には、江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かった。火事で焼け出されたとしても、失うものが少ないことが背景にある。享保8年(1723年)から翌9年(1724年)の2年間では放火犯が102人捕らえられているが、そのうち非人が41人・無宿者が22人と、下層民が多く含まれていた[注釈 14]

放火の動機としてまずあげられたのは、風の強い日に火を放ち、火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒である。奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多い。他には商売敵の店へ放火・子どもの火遊び・「ふと火をつけたくなった」という供述が残る放火[注釈 15]なども記録されており、放火の動機は現代と同じく様々であった。

火事が起きると、大工左官鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、中には火事の発生や拡大を喜ぶものもいた。火消人足(消防夫、火消人足の中核は鳶職人)の中にも、本業である鳶の仕事を増やすため・消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、呼火や継火[注釈 16]をするものが現れている。幕府も町触で警告し、捕らえた火消人足を死罪にした例もあった[18]。捕らえられた放火犯は、見せしめとして市中引き回しのうえで火焙りにされた。しかし、幕府の厳罰方針にもかかわらず、江戸時代を通じて放火による火事がなくなることはなかった。幕末には、幕府の権力低下による治安の悪化に伴って放火による火事も大幅に増加している。

江戸の放火犯としては、八百屋お七火事(天和の大火)に名を残すお七が、井原西鶴の『好色五人女』や鶴屋南北の『敵討櫓太鼓』で題材として取り上げられたため知られている。お七の放火は盗みなどが目的ではなく、別れた恋人に再会したいという思いがつのったあげくの行動であった。
気象条件

江戸の独特な気象条件として、冬の季節風である、北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)があげられる[注釈 17]。江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け乾燥したときに発生した。このため、幕府により万治元年(1658年)に4組が設けられた定火消の火消屋敷は、すべて江戸城の北西方面に置かれている。この配置は、冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものであった[注釈 18]

また、関東南部は、地形の関係から、春から秋にかけて日本海低気圧が通過する際に、中部山岳雨陰に入り、フェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風が吹くことが多い。とりわけ春先の強い南風もまた、しばしば大火の原因となってきた[注釈 19]


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