江島生島事件
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月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しく、大奥において月光院派が優勢であったことが(天英院派との関係も含めて)事件の経緯として語られがちだが、江戸幕府の公式史書である「徳川実紀」及び、間部詮房の「間部日記」の記録には、当時の大奥の首座は天英院、月光院は次席であったことが記されており[4][5]、天英院の首座の地位は徳川吉宗が八代将軍就任後も変わっていない。
江島が生島を長持の中に入れて大奥に忍び込ませ、逢瀬を繰り返したという話があるが、ただの俗説に過ぎず、当時の史料には書かれていない[6]。
生島新五郎については、享保18年(1733年)に流刑地の三宅島で死去したとする説もあり、墓も三宅島にある[7]。
関連作品
絵島生島
大奥 (2003年版ドラマ)
大奥 (2006年の映画)
かぶく者 (漫画)
大奥 浮絵悲恋 (映画)
脚注[脚注の使い方]^ 水木計『江戸の大誤解』(彩図社、2016年)pp.75-76.
^ 竹内誠『徳川「大奥」事典』P103(2015年、東京堂出版)
^ ⇒“大奥「最大のスキャンダル」絵島事件は冤罪か「真の黒幕」はあの人物?「政争」が生んだ悲劇”. 東洋経済. (2017年8月24日). ⇒http://toyokeizai.net/articles/amp/184977 2018年2月21日閲覧。
^ 「徳川実紀」(正徳二年十二月五日条)
^ 「間部日記」(正徳二年十二月五日記)
^ 山本博文『大奥学』P29(2008年、新潮文庫 )
^ 国史大辞典、吉川弘文館。
関連項目
役者買い
江戸三座
懐月堂安度
児玉南柯
市川團十郎 (2代目)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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