江利チエミ
[Wikipedia|▼Menu]
高倉と結婚した3年後の1962年、チエミは妊娠し子供を授かるが重度の妊娠高血圧症候群(この当時は「妊娠中毒症」と呼ばれていた)を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった[5]

チエミの姉(異父姉)による横領事件(後述)などがあって、高倉に迷惑をかけてはならない、と1971年(昭和46年)にチエミ側から高倉に離婚を申し入れることに[1]。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1963年(昭和38年)には日本におけるブロードウェイミュージカル初演の東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演しテアトロン賞(東京演劇記者会賞)[6]、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞、またこれに遡る1961年(昭和36年)には「歌手としてはじめて」の舞台の1か月座長公演も梅田コマ『チエミのスター誕生』で果たし、舞台女優としても活躍した(翌1962年の新宿コマ『スター誕生』公演で芸術祭奨励賞受賞)。代表作には、『アニーよ銃をとれ』、『お染久松』(芸術祭奨励賞)、『芸者春駒』、『白狐の恋』(芸術祭優秀賞)、『春香伝』、『花木蘭』などがある。

新宿コマの座長公演は1962年(昭和37年)の『スター誕生』から1978年(昭和53年)の『サザエさん』まで続いた。松竹系の舞台でも、1978年(昭和53年)京都南座で音楽劇二十四の瞳』に主演。助演した舞台にも東宝歌舞伎『沓掛時次郎』(長谷川一夫と共演)、コマ歌舞伎『春夏秋冬』(現:坂田藤十郎(4代目)、当時の中村扇雀と共演)があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

テレビドラマも『チエミの瓦版太平記』、『咲子さんちょっと』、『あの妓ちゃん』、『黄色いトマト』、『ねぎぼうずの唄』、『はじめまして』、『赤帽かあちゃん』など多数の作品に主演。

その活動の範囲は、歌手・女優に留まらず、TBS『みんなで歌おう73 - 75』のメインパーソナリティなど司会業でも活躍。ほかクイズ番組では、NHK連想ゲーム』の紅組2代目キャプテンテレビ朝日象印クイズヒントでピント』の女性軍初代キャプテンなど務めていた。

「エリー」「チーちゃん」という愛称が定着しているほか、親しい友人の間では「ノニ」というあだ名で呼ばれていた。杉良太郎や、雪村いづみが歌番組でチエミとの思い出を振り返って語るところによると、これはチエミが語尾に「のに」とつける口癖からつけられたという。

私生活の面では、3人の兄はチエミの存命中に2人が亡くなり、高倉健との間に授かった子供も重度の妊娠高血圧症候群から中絶を余儀なくされ、かわいがっていた甥の電車事故死、異父姉とのトラブル、そして離婚と、恵まれない部分も多かった。さらに1968年にはポリープによる声帯の手術、1970年1月21日には当時世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)にあった邸宅を火災で焼失、1972年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇する(歌手・俳優の三田明も搭乗していた)等、芸能生活の華やかな栄光の陰で常に不幸もつきまとっていた。
異父姉の登場とそのトラブル

名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、さまざまな事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになっていたが、ある日「スター歌手、江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知った。Y子は「離婚して経済的に困窮している」と騙って家政婦・付き人としてチエミに近づき家に入り込み、身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり経理を任されるまでになった。嫉妬心に駆られていたY子は、ここからチエミを陥れるべく犯罪的な行動をとり始めた。

Y子は高倉健とチエミのそれぞれについてでっちあげの誹謗中傷を吹聴、ふたりを別居に追い込み離婚への足がかりを作った。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金をし、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論するとともに、チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露を展開[7][8]。Y子はその後、失踪、自殺未遂騒動まで引き起こす[9]。不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行だった。

チエミは「責任は自分でとる」と決意し、断腸の思いで異父姉を告訴した。そして、2億円とも4億円とも言われた動産の被害、不動産担保を地方営業などをこなしながら1人で完済した[10]
45歳で死去

ところが1982年(昭和57年)2月13日午後、チエミが港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上でうつ伏せの状態で吐いて倒れているのがマネージャーに発見され、既に呼吸・心音とも反応がなく死亡が確認された。45歳没。死因は、脳卒中吐物が気管に詰まっての窒息誤嚥)によるものだった。チエミの死は、数日前から風邪を引き体調が悪かったところにウイスキーの牛乳割りをあおり、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入ったことが一因とも言われている。その前日は、一昨日に行われた熊本での和服商社主催のイベントを終え帰京したばかりで、チエミが亡くなった当日の夜には、北海道帯広市にてステージの予定が入っていた。

あまりにも突然過ぎる死に、チエミの親友だった「三人娘」のひばりといづみ、他にも清川虹子中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣し、チエミの葬儀の席でも深い悲しみに暮れていた。同じく親友の杉も死の前年9月、杉が主演したドラマ『大江戸桜吹雪、八千両の舞』(日本テレビ)にチエミがゲスト出演していたことから、驚きを隠せなかったという。チエミの柩が玄関を出た2月16日は、奇しくも最期まで愛し続けていた高倉との結婚の際、花嫁衣装を着て実家の玄関を出たのと同じ日だった。その高倉もチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を贈り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという[注釈 5]。それから数週間後の3月3日、仕事関係者らによるチエミの音楽葬が行われた。

世を去る直前には、2月8日ホテルニュージャパン火災、翌2月9日日航機羽田沖墜落事故という2つの大惨事が立て続けに発生していた。当時の報道・マスコミは両事故で特別報道態勢を敷いており、テレビ各局は混乱に陥っていたためチエミの急逝のニュースはその直後には小さな扱いとなり、数日後には改めて追悼番組や特集などが組まれた。

墓所は、東京都世田谷区瀬田一丁目にある浄土宗法徳寺にある。
NHK紅白歌合戦

年末恒例の『NHK紅白歌合戦』へは、「三人娘」の中ではチエミが一番早く、1953年第4回)に「ガイ・イズ・ア・ガイ」で初出場を果たす。1956年(第7回)では、雪村いづみが本番当日胃痙攣の為に出場辞退、急遽チエミがいづみの分も合わせて、出場者の印である赤い花を2つ胸に付けた。そして、自宅療養していたいづみからの「チー子がんばれ! テレビで観てる」との電報を読み上げたのち、「お転婆キキ」を熱唱した。

1963年1964年第14回第15回)は、現役歌手としてはじめて紅組司会も担当した。1968年第19回)には、当時の連続出場最多記録かつ史上最多出場記録となる16回目の紅白出場を達成したが、この1968年がチエミの生涯最後の紅白出演となった。

次の1969年第20回)は、「紅白に出場して欲しい歌手」上位3名に入っていたにもかかわらず落選し、大きな話題となる。チエミの落選の理由は、前年までチエミは後半トップバッターを、島倉千代子は前半トリを、美空ひばりは紅組トリをそれぞれ務め、ベテラン歌手のバランスを保っていたが、この年の紅白ではひばりをトリから外し、紅組トリを新しい世代にバトンタッチする計画が浮上したことにあった。その場合、それまでトリを務めていたひばりは前半トリで歌い、それまで前半トリで歌っていた島倉を後半トップの位置にするのが妥当だと製作側は考え、それまで後半トップだったチエミが押し出される形になったことである。しかし、実際にはひばりは例年通り大トリを務め、島倉も前年までと同様に前半トリを務めた[11]

1970年第21回)の紅白は当初2年ぶりの復帰出場が決まっていたが、チエミが自ら「ヒット曲がないから」「前年に比べて歌唱力は上達していません」などとの理由により、敢えて紅白への出場辞退を表明した(その後紅組の代替歌手として日吉ミミが初出場)。現役歌手で紅白出場が決まりながらも辞退したのはチエミが史上初めてのことであったが、この他越路吹雪らも同回以降紅白を辞退することになる。

その後も、1974年1975年第25回第26回)には『酒場にて』が久々にヒット曲となったが、チエミは「もう紅白は卒業したので、一切登場は致しません」と、やはりNHKからの出演要請を頑なに拒んでいた。
ディスコグラフィー

チエミの楽曲はジャズ・ポップスを皮切りに、民謡・歌謡曲・ミュージカルなど、ライバルの美空ひばりと同様に幅広いジャンルをこなす、レパートリーの多さも特長的だった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:79 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef