永田雅一
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小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している[15]。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収[15]。この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。

1948年1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが[注釈 2]、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。

その後、大映は1957年に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった。リーグ総裁の永田は当時の7チームでは日程が組みにくいとして、この年に最下位となったチームを消滅させようと提唱したが、結局自身がオーナーであった大映ユニオンズが最下位となった。大映ユニオンズは、1958年から毎日オリオンズ対等合併して、大毎オリオンズとなった。この時は形式上毎日新聞社との共同経営ではあったが、法人格と各種記録は毎日が存続しつつも、経営面では大映が存続した形の逆さ合併だったため、大映側の永田がオーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズ三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。前評判に反し大毎はストレート負けを喫したため、西本と電話で口論となり、永田が「バカヤロー」と言ったことをきっかけに西本は退任した(詳細は西本幸雄#大毎監督辞任を参照)。このシーズン終了後に毎日新聞社より全面的に球団経営を移譲され、名実共にオーナーとなる。

「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされる。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だが、長谷川が(入団当初の投手ではなく野手として)一定の成績を収めたことと、小山正明山内一弘の「世紀のトレード」を実現させた[注釈 3]実績はあったものの総じてチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせてベンチに電話をかけ監督の濃人渉に選手交代を指示するなど[17]現場への介入も多かったため、批判も受けた。一方、時には市川雷蔵などの大映のスターたちを連れながら足しげく観戦に訪れる永田はファンから愛され、オリオンズが勝った試合後に永田の出待ちをし、永田の姿が見えると拍手を送るファンもいた[18]。また、東京スタジアム(後述)のオーナー室に作った神棚にチームに向けてのお祈りを欠かさなかったなど[19]、選手を思う気持ちも並々ならぬものがあった。成田文男は「あの人ぐらいぼくらのことを思ってくれている人はいないと思う」と語っている[20]

1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアムを建設、その開場セレモニーでは観客に対し「今後この日本の代表的球場を愛されんことをお願い致します」と語りかけた[21]。しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。しかし現在、観客の入退場に対する利便性を図った設計や、当時の後楽園球場にも劣らなかった各種設備などにおいて、東京スタジアムの先駆性は再評価されている。

1969年、遂に経営難で盟友・岸信介の仲介によりロッテを5年契約のスポンサーに付け、「ロッテオリオンズ」と改名し、副オーナーに岸の私設秘書だった中村長芳を招いた。

1970年10月7日の西鉄戦で、ロッテがパ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めた時、永田はグラウンドに乱入した観客たちの手により、「永田さんおめでとう」の喝采と共に優勝監督の濃人[22]や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った(その後も観客たちは選手を片端から胴上げして回った)[23]

しかしその歓喜の瞬間からわずか3か月後の1971年1月、大映の経営再建に専念するため、永田はロッテ社長の重光武雄に球団経営の肩代わりを要請し、球団を正式にロッテへ譲渡、同時にオーナー職を中村に譲ることとなった。無念のうちに球界を去ることになった永田は記者会見で以下のように語った。魂はロッテ・オリオンズの選手の上にあり。成田木樽山崎有藤……。たとえユニフォームのマークは変わっても、選手の魂とわたしの魂はいつもいっしょだよ。小山よ、未練で言うんじゃない、是が非でも巨人を破って日本一になってくれ。目の中に入れても痛くないオリオンズを、選手たちを人手に渡すのは……[24]

ここまで語った永田は言葉を失い号泣した。


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