永田雅一
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永田は、警察官に夜となく昼となく尾行される身の上になっていき[4]、これを嘆いた母からは父の位牌を膝の前にして折檻され[4]、家を追放された[4]
映画界へ

家を追われた永田はマキノ兄弟との縁から1925年、日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。無声映画時代の映画のロケ現場は見物客からおひねりが飛び交い、それ自体が興行のようなものだった。永田はこのおひねりを拾い集め、撮影仲間と女郎屋へ繰り出すという毎日だったという[5]

駆け出しの永田は便利屋として働き、持ち前の雄弁さと、人を外らさぬ社交術で、藤村義朗浅岡信夫望月圭介らに可愛がられ政界への足場を築く[6]
映画界の父

1934年8月22日、日活を退社。退社にあたり「日活更生のため身を挺して働いたが、中谷社長の主義、政策方針に合わず退社す」との電報を打った。退社の直接の理由は秋の大作である『荒木又右衛門』の製作に当たり、社長と衝突したためとされている[7]。その後、日活の前関西支店長や宣伝部長らと第一映画社を創立[8]、日活所属の俳優陣の引き抜き合戦を経て[9]、自前のスタジオにて映画を製作している。1936年、同社が解散する際には従業員を前に泣きながら解散の弁を語ったとされる。その後は松竹大谷竹次郎の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となるのが表の履歴である。しかし、竹中労の『聞書き アラカン一代』によると撮影所所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田がそのまま大谷の傘の下に入ったとしており、引き抜きや労務管理の汚れ仕事を受け持つ別働隊であったと暴露している。

永田の泣きの芝居の一週間前には東宝から金を引き出していた日活の堀久作常務(当時。後に社長)が逮捕され、日活と東宝の提携が調印後、壊されている。何もかも日活配給網を得んとする松竹の野望から始まり、小林一三阪急阪神東宝グループ創業者)の「大東宝」構想との衝突が根本にあったとされる。1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知すると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。この立案をした情報局第五部の第二課長に贈賄をしたという噂は当時から残っている。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1947年には社長となる。翌年1月公職追放となるが、間もなく追放解除となり社長に復帰した[10]

この間、1946年第22回衆議院議員総選挙に京都選挙区から立候補したが、落選している。政治家とはならなかったものの、河野一郎岸信介との交流から、一時政界のフィクサーとなっていた時期があった。特に警職法改正で閣内が分裂した際に当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際に萩原吉太郎児玉誉士夫とともに立会人になったとされている。
大映社長として

社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)[11]

1951年後述するように個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。

このように大きな栄誉がそれぞれ永田と大映作品にあったこの1951年こそが、若いころの刻苦を乗り越え、やがて強運を掴んで上り詰めた永田の人生の絶頂点であったと見る向きもある[12]。その一方では、トキノミノルが東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデントも起きていた。

とはいえ、この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)[13]などの国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。

『地獄門』[13]では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作。その結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っており、アカデミー特別賞も受賞。一方、多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案の段階で無関心であった。試写では途中で席を立った。その後も、海外で続々と受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分の会社の作品をこき下ろしていた。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てた。


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