1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。永田と競馬との縁はこの時を嚆矢とする。10戦無敗で皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの(デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。後年、トキノミノルをモデルにした『幻の馬』という映画も製作している。他にも名牝クリフジの産駒で、桜花賞・優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチ
や、ダービー馬ラッキールーラの母トースト、天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。勝負服は緑地に黒三本輪で、永田が競馬から手を引いてからはしばらく使われなかったが、現在はグリーンファームの勝負服として登録されている。これはグリーンファームが永田の遺族に氏のかつての勝負服を使わせてほしいと申し出て、遺族が承諾したという経緯がある。 東京スポーツ新聞社を経営していた時期がある。これは、同社の事実上のオーナーであった児玉誉士夫と親交があったことによるもの。東スポは永田の手腕により全国紙へと成長した。なお、プロ野球・国民リーグの大塚アスレチックスから金星スターズを経て大映スターズの経営に携わった大塚幸之助は、最晩年東スポの監査役を務めていた。 当初日本におけるペプシコーラ事業の代表者であった。永田が日本での販売会社を設立し、上掲の大塚幸之助が総支配人を務めていた。映画館で売っているコーラはペプシとよく言われたのはこの所以。先述の東京スタジアムのスコアボードにも、ペプシとミリンダの大広告が見える。また現在も後身たる千葉ロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムに広告が掲示され、ロッテリアで扱うコーラはペプシである。 聖心女子学院のパトロンでもある。広尾の旧久邇宮邸を堤康次郎に先んじて買収し寄贈、札幌の敷地を工面したのも永田である。教育にも関心があり、ある時息子の永田秀雅が『あなたは本当は何になりたかったのです』と尋ねたところ『立派な学校を建てて、貧乏人も金持ちも区別なく教育を受けさせてやる仕事だよ』と答えたという。 武州鉄道汚職事件では、武州鉄道の発起人に名をつらねていたので贈賄罪で逮捕・起訴されたが裁判で無罪となる。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となり[27]、死去時まで務めた。 永田が熱心な日蓮宗信者であることは有名であるが、これは母・紀美の影響によるものである。紀美は家業の友禅染問屋が急激に傾いたことを機に日蓮宗に入信。身延山への百回詣でを願掛けし、毎年山に登り続けた姿を見続けることとなる。後年になって『人一倍雑念的存在であるわしが、殊勝にも信仰の道に入ったのは、全て母の信仰心に追うものなんじゃ』と語っている。 1952年 - 1953年ごろからは12月31日になると身延山の七面山に入り、元旦会のお籠りをしていたという。永田全盛期には元旦会や節分会になると長谷川一夫や時津風理事長などを従えて来山していたという。 1958年には映画『日蓮と蒙古大襲来』の制作に関わっている。 晩年の20年ほどは信徒総代となる。失火によって焼失した鐘楼をほぼ独力の寄付により再建するほか、様々な施設の寄付にかかわっている。また、紀美の銅像を境内に建立しているが、霊場のしかも総本山への個人をモデルとした銅像建立は異例である。また、墓所は池上本門寺に営まれた。 『最後の活動屋』を標榜していた。山本嘉次郎にも『映画人は信用出来んが、活動屋は信用出来る』と評されている。 母・紀美の『百回詣で』に対抗して『百回仲人』の願を立てていたという。百回目の仲人は坪内ミキ子夫妻。
その他の事業・事跡
日蓮宗信者として
人物
顕彰
1955年(昭和30年)紫綬褒章[28]
1961年(昭和36年)フランス芸術文化勲章[28]
1966年(昭和41年)藍綬褒章[28]。
家族・親族
TBSラジオのディレクター(のちプロデューサー→TCエンタテインメント専務取締役)で『コサキン怪傑アドレナリン』および後継の『コサキンDEワァオ!』、『伊集院光 深夜の馬鹿力』などを担当した永田守は孫。特に『深夜の馬鹿力』においては「永田家には足を向けて寝られないほどの大恩がある」と語る安部譲二が数々の企画に出演するなど、永田家の影響力を窺い知る逸話がある。その守に雅一は「大映パパ」と呼ばせていたという。
歌舞伎役者市川雷蔵の妻・太田雅子(一般人)は永田と養子縁組関係にあった。
外食産業専門コンサルタント会社「株式会社ブグラーマネージメント」代表取締役社長兼CEOである永田雅乙(YouTube上で永田ラッパとしても活躍)は曾孫にあたる。
日本芸能界初のプロ和太鼓奏者である高山正行の夫人の叔父にあたる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 山形県鶴岡の商工会議所の出資で制作され、すでに末期状態だった大映は一銭も負担していない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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