永田雅一
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目の中に入れても痛くないオリオンズを、選手たちを人手に渡すのは……[24]

ここまで語った永田は言葉を失い号泣した。

永田が経営を退いた3年後の1974年、ロッテはパ・リーグを制し、中日ドラゴンズとの日本シリーズに臨んだ。ロッテのホーム初戦となる第3戦、後楽園球場のスタンドに、選手や球団の招きに応じ、永田が姿を現した。永田が野球場に足を踏み入れたのは、ロッテのオーナー職を退いて以来初めてのことであった。グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要近藤貞雄といったオリオンズ在籍経験のある者(指導者)たちが姿を見せていた。永田はその光景を見て「まるで息子たちが試合をしているような気がする」とつぶやいたという[25]。ロッテはシリーズを4勝2敗で制し、日本一を達成した。なお、前述の記者会見で名前の挙がった小山は、前年の1973年に大洋ホエールズに移籍し、同年限りで引退した後、古巣・阪神タイガースのコーチに就任していた。

なお、経営を引き継いだ「株式会社ロッテオリオンズ」は、これまでの功労への配慮から永田を取締役として残留させ、オーナーが重光に交代した後の1981年時点でも、金田正一とともに名を連ねていた。

1985年10月24日、急性肺炎のため死去した[26]。79歳没。1988年野球殿堂入りを果たした。
馬主として

1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。永田と競馬との縁はこの時を嚆矢とする。10戦無敗で皐月賞東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの(デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。後年、トキノミノルをモデルにした『幻の馬』という映画も製作している。他にも名牝クリフジの産駒で、桜花賞優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチや、ダービー馬ラッキールーラの母トースト、天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。

勝負服は緑地に黒三本輪で、永田が競馬から手を引いてからはしばらく使われなかったが、現在はグリーンファームの勝負服として登録されている。これはグリーンファームが永田の遺族に氏のかつての勝負服を使わせてほしいと申し出て、遺族が承諾したという経緯がある。
その他の事業・事跡

東京スポーツ新聞社を経営していた時期がある。これは、同社の事実上のオーナーであった児玉誉士夫と親交があったことによるもの。東スポは永田の手腕により全国紙へと成長した。なお、プロ野球・国民リーグの大塚アスレチックスから金星スターズを経て大映スターズの経営に携わった大塚幸之助は、最晩年東スポの監査役を務めていた。

当初日本におけるペプシコーラ事業の代表者であった。永田が日本での販売会社を設立し、上掲の大塚幸之助が総支配人を務めていた。映画館で売っているコーラはペプシとよく言われたのはこの所以。先述の東京スタジアムのスコアボードにも、ペプシとミリンダの大広告が見える。また現在も後身たる千葉ロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムに広告が掲示され、ロッテリアで扱うコーラはペプシである。

聖心女子学院パトロンでもある。広尾の旧久邇宮邸を堤康次郎に先んじて買収し寄贈、札幌の敷地を工面したのも永田である。教育にも関心があり、ある時息子の永田秀雅が『あなたは本当は何になりたかったのです』と尋ねたところ『立派な学校を建てて、貧乏人も金持ちも区別なく教育を受けさせてやる仕事だよ』と答えたという。

武州鉄道汚職事件では、武州鉄道の発起人に名をつらねていたので贈賄罪で逮捕・起訴されたが裁判で無罪となる。

1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となり[27]、死去時まで務めた。
日蓮宗信者として

永田が熱心な日蓮宗信者であることは有名であるが、これは母・紀美の影響によるものである。紀美は家業の友禅染問屋が急激に傾いたことを機に日蓮宗に入信。身延山への百回詣でを願掛けし、毎年山に登り続けた姿を見続けることとなる。後年になって『人一倍雑念的存在であるわしが、殊勝にも信仰の道に入ったのは、全て母の信仰心に追うものなんじゃ』と語っている。

1952年 - 1953年ごろからは12月31日になると身延山の七面山に入り、元旦会のお籠りをしていたという。永田全盛期には元旦会や節分会になると長谷川一夫や時津風理事長などを従えて来山していたという。

1958年には映画『日蓮と蒙古大襲来』の制作に関わっている。

晩年の20年ほどは信徒総代となる。失火によって焼失した鐘楼をほぼ独力の寄付により再建するほか、様々な施設の寄付にかかわっている。また、紀美の銅像を境内に建立しているが、霊場のしかも総本山への個人をモデルとした銅像建立は異例である。また、墓所は池上本門寺に営まれた。
人物

『最後の活動屋』を標榜していた。山本嘉次郎にも『映画人は信用出来んが、活動屋は信用出来る』と評されている。

母・紀美の『百回詣で』に対抗して『百回仲人』の願を立てていたという。百回目の仲人は坪内ミキ子夫妻。
顕彰

1955年(昭和30年)
紫綬褒章[28]

1961年(昭和36年)フランス芸術文化勲章[28]

1966年(昭和41年)藍綬褒章[28]


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