永田雅一
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この間、1946年第22回衆議院議員総選挙に京都選挙区から立候補したが、落選している。政治家とはならなかったものの、河野一郎岸信介との交流から、一時政界のフィクサーとなっていた時期があった。特に警職法改正で閣内が分裂した際に当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際に萩原吉太郎児玉誉士夫とともに立会人になったとされている。
大映社長として

社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)[11]

1951年後述するように個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。

このように大きな栄誉がそれぞれ永田と大映作品にあったこの1951年こそが、若いころの刻苦を乗り越え、やがて強運を掴んで上り詰めた永田の人生の絶頂点であったと見る向きもある[12]。その一方では、トキノミノルが東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデントも起きていた。

とはいえ、この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)[13]などの国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。

『地獄門』[13]では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作。その結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っており、アカデミー特別賞も受賞。一方、多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案の段階で無関心であった。試写では途中で席を立った。その後も、海外で続々と受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分の会社の作品をこき下ろしていた。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てた。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して、当時の狂句は「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄している。1954年には菊池寛賞を受賞した。

大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それゆえプロ野球以外の副業にはほとんど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう」と言ったとされる。

1953年には、松竹、東宝、東映新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年に戦前の映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、1958年にその日活も加わって、テレビ業界への対抗策と化した悪名高き六社協定に発展する(1961年に新東宝が倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺した。その一方で、日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。

このような状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田に諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、ほとんど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれてゆく。その中にあって長谷川一夫の引退、上記の山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。倒産間際に湯浅憲明が、組合からの突き上げを食らいながら完成させた[注釈 1]、永田大映最後の映画作品『成熟』(1971年)の本社試写では「出来たのか、出来たのか」と女子職員に支えられながら号泣。湯浅も「あの怪物が」と複雑な心境だったというが、いつもの永田節を聞かされてきた社員たちは、この期に及んでも半信半疑だったという[5]。また、倒産間近となったとき永田は社宅の前で、「ここは抵当に入っている、諸君にはどうか倒産させないためにも、ここ(社宅)を出て行ってもらえないか」と頼み込んだ。その社宅は、約20年前に永田が社員に向かって「諸君、ここには今何もないが、いずれプールや遊園地を造る、ここにいる赤ん坊が20歳になったときには素晴らしい施設が完成しているだろう!」との大見得を切りながら演説した場所だった。その場にいた20歳の青年たちから「あの時の約束はどうした、プールや遊園地はどうした!」と罵声が浴びせられ、これにショックを受けた永田は卒倒寸前となり、腕を抱えられながら退場したという。

それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。同年、永田の跡を継ぐことを狙っていた徳間康快徳間書店子会社となって映画製作に復帰していた大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界に復帰した。

熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介(初代中村錦之助)主演で映画『日蓮』を製作した。
プロ野球との関わり

1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意する。これを永田に吹き込んだのは、永田と夫人同士が姉妹(いわゆる相婿)だった側近の武田和義[14]1948年中日ドラゴンズ赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、いくところがなく赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した[14]。小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している[15]。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収[15]。この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。

1948年1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが[注釈 2]、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。

その後、大映は1957年に高橋を吸収合併し、大映ユニオンズになった。リーグ総裁の永田は当時の7チームでは日程が組みにくいとして、この年に最下位となったチームを消滅させようと提唱したが、結局自身がオーナーであった大映ユニオンズが最下位となった。大映ユニオンズは、1958年から毎日オリオンズ対等合併して、大毎オリオンズとなった。この時は形式上毎日新聞社との共同経営ではあったが、法人格と各種記録は毎日が存続しつつも、経営面では大映が存続した形の逆さ合併だったため、大映側の永田がオーナーに就任し「大毎」のネーミングも自ら付けた。その2年後の1960年、大毎がパ・リーグを制し、日本シリーズ三原脩が監督の大洋ホエールズと対戦したとき、采配を巡って監督の西本幸雄と意見が衝突。


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