永瀬正敏
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1982年、高校生の頃、全国オーディションにて約15000人の中から選ばれ、相米慎二監督の映画『ションベン・ライダー1983年2月11日(公開日)にデビュー[2][3]。撮影は1982年8月?9月。

1990年ミステリー・トレイン』に出演。ジャームッシュ作品に出演した若手俳優として注目を浴びてからは映画中心に活躍する。

1991年、映画『息子』に出演。日本アカデミー賞ブルーリボン賞キネマ旬報日刊スポーツ映画大賞で助演男優賞、毎日映画コンクール報知映画賞で主演男優賞をそれぞれ受賞した。

1994年、『an・an』(5月6.13日No.290、マガジンハウス)で『アンアン読者が選ぶ好きな男』ランキング1位に選ばれた。

1994年から1996年に『私立探偵 濱マイク』シリーズの映画3本に出演。その後2002年からのテレビドラマ版にも出演した[4]

2004年、『渇いた花?four by four equal one?』にて初めて自身の脚本・監督作をDVD化した。

2010年日本における口蹄疫の流行に際し、義援金300万円を寄付。生まれ故郷宮崎へメッセージと、希望をテーマにしたアート作品を発表[5]。公式HPに特設ギャラリーページ『for... ?HOPE art gallery』[6]を設置し、宮崎に「希望を」というテーマに賛同するアーティスト達の作品を展示した。

デビュー30年目となる2013年より撮り貯めた写真を一挙に掲載し、公式HPに特設ギャラリーページ『I meet you Project』を設置。自身が撮影した写真作品を多数公開した。2013年12月には写真展を地元宮崎で開催[7]。また2014年1月までの間にLIVE映画祭、新世紀映画『彌勒 MIROKU』(Film orchestra ver.)も宮崎で開催された[7][8]

2013年8月.9月合併号から2015年8月.9月合併号まで『warp MAGAZINE JAPAN』の表紙とカバーストーリーグラビアの撮影を2年間担当。

2014年2月、デビュー以前から2013年までの軌跡を金原由佳による超ロングインタビュー、荒木経惟による撮り下ろし表紙&グラビア、関係者インタビュー、映画やTV・CMなど出演作データファイルを掲載した『アクターズ・ファイル 永瀬正敏』をキネマ旬報社より出版。イェール大学に映画史研究資料として蔵書されている。

2014年11月3日、宮崎県都城市のみやこんじょ大使に就任[9]

2017年6月2日、愛媛県の伊予観光大使に就任[10][11]。映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』(2014年・台湾) にて、愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校野球部の元監督で、台湾台南州嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)野球部の監督に就任した「近藤兵太郎」役を演じたことがきっかけである[11][12]

2017年10月、第30回東京国際映画祭コンペティション部門の審査委員をトミー・リー・ジョーンズ、マルタン・プロボ、レザ・ミル=キャリミ、ビッキー・チャオらと務める。

2019年3月?、朝日新聞デジタル&travel 連載 「永瀬正敏フォトグラフィック・ワークス 記憶」永瀬による写真とエッセイ連載中(毎週金曜日更新)

2019年3月22日、奈良県吉野町で撮影された『Vision』に主演したことが縁で、映画監督の河P直美と共に「吉野町観光特任大使」・「つながり住民吉野」に任命される[13][14][15]

2019年11月、第56回金馬奨で台北金馬影展(=映画祭)執行委員会の主席アン・リー李安)氏の元、最終審査員に就任。同映画祭の映像産業従事者や映像関連学科の学生・教員を対象とした関連プログラム「マスタークラス」(金馬電影大師課)で講師を務め、役者としての下準備や国際共同制作におけるコツを語った。

2021年1月から3月まで、愛知県高浜市市制50周年、高浜市やきものの里かわら美術館開館25周年を迎える記念の展覧会で写真展を開催[16]
人物
家族

信用金庫勤務の父[17]、母[17]。弟がいたが生後程なくして亡くなっている[2][18]


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