永瀬正敏
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2021年1月から3月まで、愛知県高浜市市制50周年、高浜市やきものの里かわら美術館開館25周年を迎える記念の展覧会で写真展を開催[16]。
人物
家族
元信用金庫勤務の父[17]、母[17]。弟がいたが生後程なくして亡くなっている[2][18]。
母方の実家は代々薬屋を営んでおり、母は永瀬が役者としてデビューする少し前、当時の薬種商(薬種商販売業)の資格を取っている[19]。
祖父は薩摩琵琶がきっかけで写真師の弟子になり[17]、のちに戦前鹿児島県志布志市の写真館で働く写真師となる[20][17]。戦後の混乱で写真館をたたみ、実家がある宮崎に戻ったが事情により廃業せざるを得なかった経緯がある[2]。祖父の意思を継ぐべく、永瀬は俳優業と共にカメラマンとしても精力的に活動している[7]。
曽祖父は祖父に薩摩琵琶と、武士の誇りを教えた[17]。当時薩摩藩の一部であった都城市(都城郷)の武士であり、戊辰戦争と西南戦争に参戦している[17]。91歳で大往生した際には、地元紙に「最後の薩摩武士逝く」と大きく報道されたという[18]。
愛猫家で猫と暮らしている[21]。人から猫を預かっていたときに目の前で生まれ、母猫が子猫に対して育児放棄の様子であったため「子猫に小さな哺乳瓶でミルクを与えてあげているうちに、すっかり自分の息子のような気がしてきて。もう今、彼がいなくなったらヤバいです」と明かしている[1]。
交友関係
交友関係が広く、他ジャンルのアーティストとのコラボレーションも少なくない。撮影現場で知り合った高校生の自主映画に出演したこともある[2]。「自分からアプローチしたことはほとんどなく、何しろ今まで生きてきて、僕は自分から何かを始めたことはひとつもないと思ってるぐらい。誇りに思ってるのは“出会い”」であるという[2]。Instagramでは、著名人、一般人との交流を自ら写真撮影したものが掲載されている。
仕事に対する思い
作品の内容さえ気に入れば規模や場所にかかわらず出演するというスタンスであり、1990年代以降の新しい映画俳優のあり方を確立した草分け的存在として評価されることがある。
近年は写真家として自作品を発表する機会が多い。これについて「祖父が写真師だった影響を受けているかも知れない」と語っている[18]。
転機となった『ミステリー・トレイン』の出演以降、現在まで活動の大半は自身が愛する映画への出演となっており、映画以外での演技について語られることは少ない。ただし本人がテレビドラマ、舞台演劇などに対して否定的な意見を述べたことはほとんどなく、『ママはアイドル』に関しては「コメディの空気を学べた」と肯定的なコメントもしている。
評価
Twitch Filmのトッド・ブラウン(Todd Brown)からは、Masatoshi Nagase is one of the great unsung heroes of Japanese film, a hugely reliable character actor with seemingly unerring taste in projects who - despite a huge body of work - remains largely unknown by name.と評されている[22]。
日本人俳優として初めてカンヌで出演作が3年連続コンペティション部門にノミネートされた[23]。
斎藤工は、「永瀬さんが今までされてきた仕事は僕の憧れ。永瀬さんはアジア映画のひとつの象徴であり、大いなるアイコンであると、なんだか勝手に誇らしくなっています」と述べている[24]。
受賞歴
1991年度
第16回報知映画賞 主演男優賞(『息子』『アジアンビート アイ・ラブ・ニッポン』『喪の仕事』)
第4回日刊スポーツ映画大賞 助演男優賞(『息子』)
第65回キネマ旬報ベスト・テン 助演男優賞(『息子』)
第46回毎日映画コンクール 男優主演賞(『息子』『喪の仕事』『アジアンビート アイ・ラブ・ニッポン』)
第34回ブルーリボン賞 助演男優賞(『息子』)
第15回日本アカデミー賞 新人俳優賞(『アジアンビート アイ・ラブ・ニッポン』『息子』『喪の仕事』)
第15回日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞(『息子』『喪の仕事』)
エランドール賞 新人賞(『息子』他)
1992年度
第7回高崎映画祭 最優秀主演男優賞(『死んでもいい』)
1996年度
第1回ニフティ映画大賞 男優賞(『罠』)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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