大正期までに隅田川には5つの鉄橋が架橋されていたが、その多くが橋底の基部や橋板に木材を使用していた。このため、1923年(大正12年)の関東大震災では永代橋、厩橋、吾妻橋が炎上し、巻き込まれた避難民は多数が焼死、あるいは溺死した。両国橋、新大橋も木材を使用した構造だったが、焼失を免れて避難路として機能した。
1926年(大正15年)に震災復興事業により隅田川の9橋の再架橋が決まり[注釈 3]、現在の橋梁が再架橋された。工事には当時としては珍しい潜函工法も用いられている。同年12月20日に完成し、翌々日の12月22日に開橋式が執り行われた[9]。「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋(レマゲン鉄橋)をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋でもある[6]。帝都復興院で橋梁を担当した田中豊、太田圓三らが技術とデザインの両立に腐心した成果であり[6]、東京大学工学部1号館に架橋当時の永代橋のレプリカモデルが存在する。 2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。 2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。 地図によっては永代橋の下を東京メトロ東西線が通過しているが、これは不正確で、実際の東西線は永代橋の約25 m下流側を通過している[1]。また、同線の建設では過去に架設されていた旧永代橋の橋台や橋脚が支障し、取り壊しや基礎杭の撤去作業に多大な労力を要したという[1]。 永代橋の航行量は1921年3月5日(7:00?17:00)には688隻だったが、2014年8月27日(8:00?20:00)には174隻となり、約100年で4分の1になった[10]。
文化遺産として
東京メトロ東西線について
航行量
隣の橋
隅田川(上流) - 清洲橋 - 隅田川大橋 - 永代橋 - 中央大橋 / 相生橋 - 佃大橋 - (下流)
永代橋が登場する作品
小説
杉本苑子『永代橋崩落』〈中公文庫〉1992年(原著1988年)。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-12-201900-3。
映画
『日本沈没』
1973年の映画版に登場。第二関東大震災の本震でねじれて崩壊した[11]。
ドラマ
『いつかまた逢える』
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 千住大橋(文禄3年)、両国橋(万治2年)、新大橋(元禄6年)に次ぐ。最後は吾妻橋(安永3年)。
^ 1655年にあたる。
^ 江戸期からの5橋のうち鉄筋コンクリート製で焼失を免れた新大橋を除く4橋と、相生橋、厩橋の再架橋、言問橋、駒形橋、蔵前橋が新設された。
出典^ a b c 東京地下鉄道東西線建設史、pp.455 - 462。
^ “夜景が一変 白鬚橋から築地大橋までライトアップ
^ “永代橋
^ “ニューマチックケーソン > 工法の概要
^ 東京市史稿橋梁編415ページ 永代橋創架「十一年戊虎三月廿五日深川大渡に架橋を命ず。七月二十八庚子工成り、廿九日辛丑永代橋と命名し、八月朔日壬寅開通す。」
^ a b c 【何でもランキング】ロマン感じて歩いて渡る長寿橋/1位 永代橋(東京都)92歳:資料価値大、重厚な「帝都の門」『日本経済新聞』土曜朝刊別刷り・日経+1(2019年6月2日)
^ a b 江戸名所図会 永代橋.
^ 「けいしんめがね」〔赤穂浪士と泉鏡花 永代橋物語〕『大江戸かわら版』(創刊号 2009年11月3日(火)、p3)より。
^ 「東洋一の永代橋完成」『時事新報』1926年12月23日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編pp.494-495 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ “荒川水系隅田川流域河川整備計画”. 東京都. 2021年12月24日閲覧。
^ 『日本沈没』映画パンフレットより。
参考文献
『東京地下鉄道東西線建設史』帝都高速度交通営団、1978年7月31日。https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/。
林溪清[1]「けいしんめがね」〔赤穂浪士と泉鏡花 永代橋物語〕『大江戸かわら版』創刊号、2009年11月3日(火)、A&Aインタラクティブ株式会社 発行
斎藤長秋 編「巻之一 天枢之部 永代橋」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、170,172-173頁。NDLJP:1174130/91。