永井荷風
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^ 亜米利加に来たりてより余が脳裏には芸術上の革命漸く起らんとしつつある如し……身海外に在るが故にや近頃は何となく雅致に富める古文の味忘れがたく行李を開きて平家物語栄華物語なぞ取出し独り炉辺に坐して夜半に至る[6]
^ 『永井荷風 人と作品43』85-86頁によると「父の一周忌が過ぎた頃、八重次との結婚を従兄永井松三に相談したが同意を得られず、これがもとで松三との間が気まずくなった。1916年5月には末弟の威三郎が東京のある工学博士鷲津毅堂の三女誉津と結婚したが、この結婚には荷風と“別戸籍とすること、新居を構へること、結婚式當日荷風を参列させぬこと”などの条件付だった(『荷風外傳』による)。ために荷風は威三郎の結婚以後、次弟貞二郎を別として威三郎をはじめ親類縁者との交際も絶った」という。
^ 吾々はかのアングロサクソン人種が齎した散文的實利的な文明に基づいて、没趣味なる薩長人の経営した明治の新時代に對して、幾度年間、時勢の變遷と稱する餘儀ない事情を繰返し繰返し嘆いて居なければならぬであらう。……理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか[10]。浪士上りの官吏軍人は直ちに都會の樂事に誘はれ、上下挙っていかに肉樂の追究に馳せしかを知るに足るべし。……幕府を滅ぼせしものは實に西洋なりき、西洋なかりせば薩長の狡智も虚に乗ずる事能はざりしや明なり。明治に至って猶餘命を保ちし江戸趣味も亦同じく西洋文化の為に破壊し盡されぬ。日露戦争後の日本文明は、西洋文明の輸入若しくは模倣と云はんよりも、こは寧毀損或は粗雑な贋造と云ふべく。……われは寧ろ一日も早く固有なる東京趣味の成立せん事を欲して止まざるものなり[11]
^ 新しき國民音楽未だ起らず、新しき國民美術猶出でず、唯だ一時的なる模倣と試作の濫出を見るの時代……余は徒らに唯多くの疑問を有するのみ。ピアノは果して日本的固有の感情を奏するに適すべきや。油畫と大理石とは果して日本特有なる造形美を紹介すべき唯一の道たりや[12]
^ 大正六年九月十六日 秋雨連日さながら梅雨の如し夜壁上の書幅を挂け替ふ[14]
^ 近所には俳優山形勲の父親が建てた本格的洋風ホテルがあり、正装して食事に訪れる姿を小学生だった勲が見ている(山形勲#来歴)。 川本三郎『荷風と東京?「断腸亭日乗」私註』「十 山形ホテル」 (勲へのインタビューあり)
^ 大正八年正月元旦曇りて寒き日なり九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り一片のクロワツサンを食し昨夜読残の『疑雨集』をよむ[15]
^ 昭和十九年十二月初三 快晴 日曜日老眼鏡のかけかへ一ッくらい用意し置かむと思ひて昼飯して後外出の支度する時警報発せられ砲声殷殷たり空しく家に留る?下警報解除となる今日は余が六十六回目の誕生日なりこの夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ唯この二、三年来かきつづりし小説の草稿と大正六年以来の日誌二十余巻だけは世に残したしと手鞄に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし夜半月佳し[16]
^ 昭和十一年二月廿六日朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなりラヂオの放送も中止せらるべしと報ず余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの声のみ物哀れに聞ゆるのみ市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とを恐れ門を出でず風呂焚きて浴す[17]
^ 昭和十五年八月初一正午銀座に至り銀座食堂に飯す南京米にじやが芋をまぜたる飯を出す此日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば其有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり今日の東京に果して奢侈贅沢と称するに足るべきものありや笑ふべきなり[18]
^ 昭和二十年三月九日 天気快晴夜半空襲あり翌暁四時わが偏奇館焼亡す余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出たり近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず唯火?の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり[19]
^ 昭和二十年三月十日ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり[20]
^ 昭和二十年八月十三日谷崎氏を勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山驛の停車場に至る(……)午後一時半勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ驛の停車場を去ること僅に三四町ばかりなり 戦前は酒樓なりしと云谷崎氏は離れ屋の二階二間を書斎となし階下に親戚の家族多く避難し頗雜沓の様子なり細君に紹介せらる 年紀三十四五歟 痩立の美人にて愛嬌に富めり 佃煮むすびを恵まる一浴して後谷崎君に導かれ三軒程先なる赤岩といふ旅館に至る[22]
^ 昭和二十年八月十四日燈刻谷崎氏方より使の人釆り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたゝめられたり細君下戸ならず 談話頗興あり[23]

8月14日の夜、谷崎が牛肉を準備し、宿泊していた赤岩旅館で牛鍋を食べた[24]
^ 昭和二十年八月十五日 陰りて風凉し宿屋の朝飯 ?卵 玉葱味噌汁 はや つけ焼 茄子香の物なりこれも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり飯後谷崎君の寓舎に至る鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る雑談する中汽車の時刻迫り来る再会を約し送られて共に裏道を歩み停車場に至り午前十一時二十分発の車に乗る新見駅にて乗替をなし 出発の際谷崎君夫人より贈られし弁当を食す白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり欣喜措く能はず[25]
^ 昭和二十年八月二十日 晴午後突然轣轆たる車聲の近巷に起るをきく。怪しみて人に問ふに妙林寺の後丘松林深き處に洞窟あり。飛行機材料を隠匿せしが、武装解除となりし爲、日日これを岡山驛停車場に運搬するなり。之に依つて初て七月中旬機銃掃射の近巷に行はれし所以を知れり。予は萬死の中に一生を得たりしなり。薄暮後丘に怪鳥の鳴くを聞く。梟に似て梟にあらず。何の鳥なるを知らず。旅に出て きく鳥やみな 閑古鳥 ? 荷風[26]
^ 昭和二十二年五月初三 雨米人の作りし日本新憲法今日より実施の由笑う可し[27]
^ 店名は「大黒家」であるが、永井は「大黒屋」と繰り返し記している。大黒家では永井が毎回食していた並カツ丼、上新香、酒1合(菊正宗)を「荷風セット」として販売していたが、2017年6月を以って閉店した。


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