永井一郎
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葬儀・告別式は2月3日に営まれ、浦沢直樹加藤みどり冨永みーなが弔辞を担当[32][33]。それまでに共演してきた多くの声優仲間や後輩など約400人が参列し[34]、出棺の際には永井の弟の呼びかけにより、波平の口癖であった「バカもーん!」という言葉で送り出され、ホルストの組曲『惑星』の第4曲ジュピターの中間部が流れた[35][36]。その後、遺体は品川区桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。
特色・人物

声種ローバリトン[37]方言大阪弁[9]

役柄としては壮年から老人の男性を演じることが多く「老け役声優」として知られた。重厚な声を得意とし[38]、主役以上の存在感を持つ脇役を演じることも多かった。アニメは『サザエさん』の磯野波平をはじめ創成期より数々の作品に出演。その他にも吹き替え特撮作品、ナレーションなど幅広い分野で活躍した。

フジテレビ『プロキング』で声優121人が選ぶNo.1声優第4位に選ばれた。おもな投票理由は「声を変えずにキャラクターを変える演技力」。

腰が低く気さくな人柄から、多くの後輩に慕われていた[19]松本梨香によると、現場で若手が叱られ落ち込んでいると場を和ませるなど、気遣いの名人でもあったという[19]。また、舞台では後輩の劇団公演に参加したり舞台セットの撤収まで付き合ったりと、かなり面倒見がいいことで知られた。

熱血漢なことでも知られていた[19]。また、仕事好きな性格だったことから、生涯現役の意向を貫いた[39]

政治に関しては、日本共産党支持者であった[40]

趣味はフラメンコギターの演奏[3]

母方の祖母が明治の末期の頃の写真でバイオリンを弾いている写真が残っており、その姉妹でバイオリンとピアノチェロを弾いていたという[3]宝塚歌劇団入団志望だった母、彫刻家志望だった父がいた[3]いとこドイツホルンを吹いている音楽家と女優の泉晶子がいる[3]。弟[35][36]、画家の妹がいる[3]
仕事に対する姿勢

1962年、俳優の東野英治郎が、『東京新聞』に「“声”優に危険手当てを-他人の演技に合わす苦しみ」と題するコラムを発表。東野は、俳優の演技とは「動くから自然に声が出るのであり、声が出るから動くもの」なのだから、外国産テレビ映画の他人が演じた動きに声だけを当てはめるアテレコは、俳優として片輪になりかねない危険な仕事だと主張した[注 3]。当初、永井は東野の演技論に反論できずにいたが、体育学者の勝部篤美による、実際に体を動かさなくてもイメージするだけで筋肉に放電が起こるという研究報告[41]にヒントを得て。1981年、『ガンダムセンチュリー』に寄稿した「細胞でとらえた演技」の中で反論を行い、舞台俳優の演技も声優の演技も本質的に違いはないと結論した[42](詳細はアテレコ論争を参照)。

役作りでは、「どんな人間も幸せを追求している」との持論から、演じる役が何を自分の幸せとしているかを探すことが大切なコツとしている[43]

すべての仕事に全力で取り組み、等価値の思い入れを持つようにしていたことから、特別思い入れのある役は無く、どの役も気に入っていたという[39]

アニメの仕事に関して、始めた当初は「ちっともアニメが好きではなかった」とのことだが、「でも今は好きですね」と語っている[44]

本人曰く、「活舌をよくするために飲酒をしていた」という[45]
待遇改善運動

声優の待遇・地位向上にも尽力したことでも知られている。永井本人は「声優は子供たちに夢を与える素晴らしい仕事なのですから、声優に憧れる子供たちが迷わず入ってこられるような、素晴らしい業界にしなければなりません」と語っていた[46]

永井がデビューした頃、草創期である声優(吹き替え)業界の出演料は、生放送が基本だったことから「放送1回分の対価」であったため非常に安かった。その後、録音収録が始まり出演作の再放送がされるようになったことで様々な交渉や契約がなされたが、永井ら声優側が知らない間に出演作が再放送されるなど「再放送に対する対価」が支払われず、状況は生放送時代から一向に改善されなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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