永井一郎
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京都大学文学部仏文科卒業[4][5]

幼少時代は通信簿に「栄養に注意を要す」と書かれていたほど好き嫌いが激しく、体が小さかったという[4]。両親はあまりガミガミ叱らず、「自由に育ててくれた」と語り、あまり動じないで、じっと見ていてくれていたという[4]

小学校時代は勉強のことなど考えていなかった[4]。その時の担任の女性教師が黒板にきれいな字を書いており、何事もきちんとやるということを教えてくれたもらった気がしていたという[4]

戦争中だったため、小学校時代の同級生は皆「将来は大臣になりたい」、「兵隊になりたい」などと言っていたが、永井は兵隊になるのは嫌だった[4]。友人と「戦死せずにすむ職業はないか」と話をしていたところ、「技術将校というのがあるよ」ということで、「そうか、それにしよう」と思った[4]。ただし、口ではそう言っていたが、実際に「なりたい」とは思っておらず、小学生の時は「何になりたいか」と考えたことがなかったという[4]

元々映画が好きであり、中学4年生の時に受験勉強しながら1年間に432本映画を観ていたという[2]。子供の頃は数学者になるつもりであり、旧制高校の理科に進学[2]

大学も理科に進学するつもりだったが、図学の2題だけの試験であるxyzの方程式を三次元の図に書き表す問題が2題とも出来なかった[2][20]。それがショックであり、「これは才能がない。やめたほうがいい」と思い、当初は京都大学理学部に願書を出していたが、急遽取りやめにして、京都大学文学部に出し直したという[2][20]

大学進学時、それまで学んだ理系から文系に変わったところ暇を持て余すようになったといい、そんな中で同級生に誘われたことを機に演劇部へ入部[21]。それまでは芝居に特別興味はなかったが、様々な芝居を観て「うわぁ、世の中にこんなにおもしろいものがあるんだ」、「芝居って面白い!こんな世界があるんだ」と感銘を受けて役者を志す[21][14][22]。その後、就職活動はしたものの全て不採用となったこともあり、卒業後は役者を志して上京[20][21][22]

新劇俳優を目指し、当時「三大劇団」と言われた内の二つである文学座劇団民藝を受けるも不合格となる[21]。もう一つの俳優座を受ける気力もなくなったことで、約2年間は電通に勤務[注 1]しながら俳優の養成所に通う[14][21][20]。養成所卒業後、愛川欽也ら俳優座の3期生が集まって結成した劇団三期会に参加[20]
キャリア

三期会では実年齢が25歳と最年長だったため、この舞台から中年や老人の役を始めるようになる[20][21][22]

1956年、ラジオドラマ『少年宮本武蔵』でデビュー[13]。声優活動は、三期会がアメリカのテレビ映画スーパーマン』の吹き替えにユニットで出演していたため始めるようになったという[20][21]。その後、吹き替え業界で「年寄りの役ができるヤツ」として知られるようになり[21]、特に1959年開始の海外ドラマローハイド』のウィッシュボーン役が老け役専門になる決定的な出来事で出世作となる。以後、声優の仕事でスケジュールが埋まり、舞台や映画の仕事をやれなくなったことで、自然と声優に専念するようになっていった[20][21]

アニメ作品では、1962年の劇場用作品『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(東映動画)でのアーマッド役が初めての出演だった。テレビアニメには『仙人部落』でデビューし『鉄腕アトム』にも出演[21]。1964年の『ビッグX』の博士役が初のレギュラー出演となり、黎明期から活躍。1969年から長年演じた『サザエさん』の磯野波平役が代表作となった[16]

所属事務所は劇団三期会、東京俳優生活協同組合同人舎プロダクション、東京アーチストプロを経て、青二プロダクションに創立メンバーとして所属していた[8][24]

2009年、第3回声優アワード功労賞を受賞[25]2011年東京アニメアワードでは、功労賞を受賞[26]
死去

2014年1月27日12時半頃、宿泊していた広島県広島市中区のホテルの浴槽で倒れているところを従業員に発見され、病院へ運ばれたが、間もなく死亡が確認された[7][15]。満82歳没(享年84)。所属事務所より、死因は虚血性心疾患による心不全と発表された[27]

永井は死去の前日から27日にかけ、中国放送製作の特番『世界が知りたいニッポンの技 ?美と食の匠たち・・・ひろしま篇?』[注 2]のナレーション収録のため広島市を訪れており[7][16]、これが生前最後の仕事となった[29]。また、同番組のエンディングには追悼のテロップが流れた[29]。磯野波平を演じていた『サザエさん』は、同年2月9日放送分(1月23日収録)が最後の出演となった[16]

戒名は「壽聖院勲譽一叡聲導居士」(じゅしょういんくんよいちえいせいどうこじ)で、「周りの人々をほのぼのと温かく豊かに見守り、声によって救い導く」という意味が込められている。通夜は2月2日18時から営まれた[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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