氷河時代
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1834年には、ベルナー・オーバーラントのマイリンゲン出身の無名の木こりも、スイス系ドイツ人の地質学者ジャン・ド・シャルパンティエ(英語版) (1786?1855) との議論の中で、同様のアイデアを主張した[20]。ヴァレー州のヴァル・ド・フェレ、スイス西部のゼーラントから[21]、そしてゲーテの科学的著作(英語版)[22]のほか、世界各地で似通った説明がなされている。バイエルンの博物学者エルンスト・フォン・ビブラ(英語版) (1806?1878) が1849年から1850年にかけてチリアンデス山脈を訪れたとき、現地の住民は、化石化したモレーンは過去の氷河作用によるものと考えたそうである[23]

一方では、ヨーロッパの学者たちは何が漂移性物質(迷子石など)の散布を引き起こしたのだろうかと考え始めた。18世紀の中頃から、一部の者は運搬手段の一つとしての氷河について討論した。スウェーデンの鉱山技師 Daniel Tilas (1712?1772) は、1742年に、スカンディナビア地方とバルト地方の迷子石の存在を説明するために海氷の漂積を提案した最初の人物だった[24]。1795年にスコットランドの哲学者で博物学者のジェームズ・ハットン (1726?1797) は、アルプス山脈の迷子石は氷河の作用によるものだと説明した[25]。それからおよそ20年後の1818年、スウェーデンの植物学者ヨーラン・ヴァーレンベリ (1780?1851) は、スカンディナビア半島の氷河作用の理論を発表した。彼は氷河作用を地域的な現象と考えた[26]

そのわずか数年後、デンマーク系ノルウェー人の地質学者イェンス・エスマルク(英語版) (1762?1839) は、一連の世界規模の氷河時代について主張した。1824年に発表した論文の中で、エスマルクは気候変動が氷河時代の原因であると提唱した。彼は氷河時代が地球軌道の変化から生じたということを示そうとした[27]。それから数年の間に、エスマルクの発想は、スウェーデン、スコットランド、ドイツの科学者らに分けて討論され、引き継がれた。ノルウェーの氷河学者ビョルン・G・アンデルセン(英語版) (1992) の批評によると、エディンバラ大学のロバート・ジェイムソン (1774?1854) はエスマルクのアイデアに対して比較的好意的だったようだという[28]。スコットランドの古代の氷河についてのジェイムソンの所見は、ほとんどおそらくエスマルクに刺激されたものだった[29]。ドイツでは、ドライスィヒャッカーのアカデミーで森林学の教鞭をとっていた地質学者のラインハルト・ベルンハルディ(ドイツ語版) (1797?1849) が、テューリンゲン南部の都市マイニンゲンでの観察研究により氷河時代の存在を示す証拠が具体化されたことで、エスマルクの学説を受け入れた。1832年に発表した論文の中で、ベルンハルディはかつての極地の氷原について、温帯のドイツ中部にまで進出していたと推測した[30][31]

1829年、これらの討論とは独立して、スイスの民間技師イグナス・ベネツ(英語版) (1788?1859) は、アルプス山脈とその近くのジュラ山脈および北ドイツ平原の迷子石の散布の原因は巨大な氷河にあると説明した。彼がスイス自然科学協会(ドイツ語版)でこの論文を発表したとき、ほとんどの科学者はそれに懐疑的だった[32]が、とうとうベネツは友人のジャン・ド・シャルパンティエを納得させた。シャルパンティエはベネツのアイデアをアルプス山脈に限定した氷河時代説に変容させた。彼の考えはヴァーレンベリの学説に似ていた。事実、2人は地球史について、同じ火山仮説[訳語疑問点]を共有していたが、シャルパンティエの場合はむしろ火成説(英語版)を支持していた。1834年にシャルパンティエはスイス自然科学協会で論文を発表した[33]。その間に、ドイツの植物学者カール・フリードリヒ・シンパー (1803?1867) は、バイエルンの高山地方の迷子石の表面に生える蘚類(コケ)を研究していた。彼は、そのような多くの石はどこからやって来たのだろうかと考え始めた。1835年の夏に、彼はバイエルン・アルプス(英語版)を回遊した。シンパーは、氷河は高山地方の迷子石の運搬手段だったに違いないとの結論に達した。1835年から1836年にかけての冬に、彼はミュンヘンで講演した。シンパーはその時、寒冷な気候と凍った水で全球が覆い尽くされた時代 ("Verodungszeiten) があったに違いないと仮定した[34]。シンパーは1836年の夏を、大学時代の友人であるルイ・アガシー (1801?1873) とジャン・ド・シャルパンティエと共に、スイス・アルプス(英語版)のベー(英語版)に近い Devens で過ごした。シンパーとシャルパンティエ(このほかにベネツを含むかもしれない)は、アガシーに地球が氷河で覆われた時代があったことを納得させた。1836年から翌年にかけての冬に、アガシーとシンパーは一連の氷河時代説を展開した。彼らは主に、先行するベネツとシャルパンティエの論に頼りつつ、彼ら独自の野外調査も取り入れた。アガシーは当時既にベルンハルディの論文を熟知していたとみられる[35]。1837年の初頭に、シンパーは氷河の時代を表す "Eiszeit" (「氷河時代」の意)という術語を新造した[36]。1837年7月24日にヌーシャテルで開かれたスイス自然科学協会の年次総会の講演で、アガシーは彼らの学説を総合して、ジュラ山脈近くで見つかる迷子石は氷河時代の広大な氷床によって運ばれたのだとする氷河時代説を発表した[31][37]。聴講者はこれにかなり批判的で、気候史に関する当時の定説の見解と矛盾していたこともあって、一部にはこの新説に反対する者もいた[37]。同時代のほとんどの科学者らは、地球はその誕生時の溶融状態から徐々に冷却されてきたのだと考えていた[38]

この拒絶を乗り越えるために、アガシーは地質学的野外調査に着手し、実際にジュラ山脈にまで足を運んだ[37]。彼は1840年に "Etudes sur les glaciers" (『氷河の研究』)と題した本を出版した[39]。シャルパンティエは、自身もアルプス山脈の氷河時代についての本を出す準備をしていたため、これに気を悪くした。アガシーに深く掘り下げた氷河の研究を紹介したのはシャルパンティエ自身だったのだから、アガシーはシャルパンティエの優位を認めるべきだったと感じていた[40]。それだけでなく、アガシーは、個人的な口論の結果として、自著の中でシンパーに一切言及しなかった[41]

全てまとめて、氷河時代説が科学者らに完全に受け入れられるようになるまでには数十年を要した。これは、氷河時代の原因についての信頼できる説明をした1875年の "Climate and Time, in Their Geological Relations" の出版を含む、ジェームズ・クロール(英語版)の研究に続いて、1870年代後半に国際的な規模で受容が進んだ[42]

ただし、この最初の段階で研究されたのは現在の氷河時代の中で過去数十万年に起こった氷期(今でいう第四紀氷河時代(英語版)の氷期の一部)についてである。新生代よりも古い時代に存在したとされる氷河時代の形成過程の詳細については、2011年現在も未だ明らかにされていない[6]
証拠

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出典検索?: "氷河時代" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年11月)

氷河時代の存在を示す証拠は主に地質学的証拠、化学的証拠、古生物学的証拠の3種類ある。

地質学的証拠は、岩が磨かれたり削られたりした跡(擦痕)や、そのような侵食作用を受けてきた独特の形状の岩(羊背岩など)、氷河末端や縁辺に堆積した角礫(モレーン)、独特の氷河地形(ドラムリン、氷河谷など)、ティル(氷礫土)やティライト(氷礫岩)等の氷河性堆積物など、様々な形で得られる。しかし、繰り返し起こる氷河時代が、それ以前の氷河時代の地質学的証拠を変形・消去することで、解釈を難しくしている。その上、これらの証拠は正確に年代を特定するのが難しく、初期の学説では、間氷期と比べると氷期は短かっただろうと考えられていた。海底堆積物コアと氷床コアの採取・解析による研究手法が出現すると、氷期は長く、間氷期は短いという、真の状況が明らかになったが、それでも現在の理論に到達するまでには時間がかかった。

化学的証拠は、主として堆積物堆積岩および海底堆積物コアに含まれている化石中の同位体比の変化から得られる。直近の氷期の氷床コアについては、それに含まれる気泡から得られる氷および大気のサンプルから、気候プロキシ(英語版)(代替指標)を提供する。重い同位体を含んでいる水ほど蒸発熱が大きいため、より寒冷な環境ではその割合は減少する[43]。これにより温度記録が構築される。しかし、この証拠は同位体比に記録された他の要因によって混乱させられることがある。


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