氷川神社
[Wikipedia|▼Menu]
このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。
古代

平安時代前期に編纂された『日本三代実録』に「武蔵国氷川神」の名で神階授与の記載がある。数年の間に位が上がっていることから、朝廷から崇敬されていたことが分かる。

貞観元年(859年)1月27日、従五位下から従五位上。

貞観5年(863年)6月8日、正五位下。

貞観7年(865年)12月21日、従四位下。

貞観11年(869年)11月19日、正四位下。

元慶2年(878年)12月2日、正四位上。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、名神大社に列し、朝廷からの月次祭新嘗祭では官幣に預かっていた。
中世

平安時代後期、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受けた。平貞盛平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。治承4年(1180年)には源頼朝土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進[3]建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納している。
一宮・三宮に関する議論

氷川神社自体は「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げているが、武蔵国内における氷川神社の位置付けには、一宮と三宮の2説がある(「武蔵国#神社」も参照)。 

平安時代中期の『延喜式神名帳』では氷川神社は名神大社として記載される。しかしながら鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、現在の東京都多摩市に所在する小野神社(延喜式神名帳では「小社」)を指すと思われる「多磨郡吉富に一宮」の記述があり、平安時代に社格の逆転があったと考えられる。

武蔵国総社である東京都府中市大國魂神社(六所宮)では、南北朝時代に編纂された『神道集』を基にして、武蔵国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っており、公式に「一宮」を小野神社、「三宮」を氷川神社としている。現在も大國魂神社の例大祭くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷に、氷川神社の神官が「三宮」として参じている。

一方、室町時代後半に編纂されたと思われる『大日本国一宮記』は氷川神社を一宮とした。前述を基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説もある。

これとは別に「氷川女躰宮」が一宮ともされている[8]
近世

徳川家康が関東に入ると、文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。寛文7年(1667年)3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。

近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、1699年元禄12年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。

1833年天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠り、現在の祭神が定められている。
近代以降

明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守勅祭の社と定めた[9]。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った 。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁の楽師による歌舞奉納される。1871年明治4年)には近代社格制度において最高位の官幣大社に列格された。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度親拝し、昭和天皇も皇太子時代の1917年大正6年)11月12日、天皇に即位した1934年昭和9年)11月18日に、それぞれ陸軍特別大演習の帰途[10]に親拝し、1967年(昭和42年)10月に夫妻で参拝された。明仁上皇も皇太子時代の1963年(昭和38年)9月に参拝し、1987年(昭和62年)7月と天皇に即位した1993年平成5年)5月には夫妻で親拝している。

明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村(現・さいたま市北区日進町二丁目)の万福寺へ退転した。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。

1882年(明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに1940年昭和15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、1929年(昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は1939年(昭和14年)3月に分離して埼玉縣護國神社となり、同4月には国指定護国神社となった。昭和15年には紀元二千六百年を記念して神社局造営課の設計により社殿建築の多くが建て替えられ、現在の社頭景観の多くがこのとき創出された[11]

1966年(昭和41年)7月22日明治神宮の大鳥居(第二鳥居〈木造鳥居では国内最大級〉)が落雷によって破損したため、新たな鳥居が1975年(昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、1976年(昭和51年)4月5日に氷川神社に竣功された[注釈 3]。これが現在の二の鳥居で、旧さいたま市立大宮図書館の前にある。このとき、もともとの石造の二の鳥居は大宮公園との境界へ移設されていたが、東日本大震災で基礎が破損したため一旦撤去された。その後、撤去した柱を新たに整備された摂社寄りの参道と公園との境界の標として再建されている。

1982年(昭和57年)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。
境内

現在の社殿の多くは紀元二千六百年を記念して造替されたもので、本殿、拝殿、舞殿、楼門、手水舎などは神社局造営課角南隆谷重雄、斎館などは国粋建築研究所の二本松孝蔵によるものとされる[11]

本殿

拝殿

舞殿

楼門

額殿

神楽殿

摂末社
摂社門客人神社
(さいたま市指定文化財)天津神社
(さいたま市指定文化財)宗像神社

門客人神社(もんきゃくじんじんじゃ)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef