水野忠之
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水野騒動の処罰と転封、虹の松原一揆などによる混乱や藩主押し込め、浪人や町人による藩邸襲撃、それらに伴う屋敷の移動[3]で忠之時代の遺構(浪士が切腹した畳二枚、供養塔など)[4]は散逸してしまい[5]、現在は新たな水野家の屋敷跡に、石灯篭(「降る石や 瓦飛び散る 水の家」 句があり、前屋敷が襲撃されたのちに置かれたもの。)、二か国語の案内板、由来不明の丸石と木製ベンチが残る。
幕閣での昇進と批判

忠之はその後も幕府要職を歴任、宝永2年(1705年)1月1日に奏者番に就任する。さらに正徳元年(1711年)12月23日には若年寄に就任した。正徳4年(1714年)9月6日に京都所司代に就任する。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した(大監物去る)。

享保2年(1717年)9月27日、老中となり将軍徳川吉宗享保の改革を支えた。享保7年(1722年)、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年(1723年)、見立新田十分一の法を設け、新田開発を促した。享保10年(1725年)には1万石を加増された。享保13年(1728年)、幕府領の年貢を四公六民から五公五民に引き上げた。これらの施策により幕府の財政は好転したものの、米価の急落や負担増による不満から批判された。当時流行した落書に、「無理で人をこまらせる物、生酔と水野和泉守」と詠まれるほどであった。

享保15年(1730年)6月12日に老中職を辞し、7月6日に次男の忠輝に家督を譲って隠居した。

隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年(1731年)3月18日に死去した。享年63。生前の遺命に基づいて牛込宝泉寺にて荼毘し、遺骨は24日に下総国山川万松寺へ送られて葬られた。水野監物邸跡水野監物邸跡説明板
系譜

父母

水野忠春(実父)

清光院 ー 前田利次の娘(実母)

水野忠近[6](養父)

水野忠盈[7](養父)

正室

牧野康重の娘

子女

水野忠輝(次男)

登場作品

水戸黄門第3部』(1971年)演:高野眞二 ※役名は「水野監物」。

大岡越前第3部』(1972年)演:清水元

『大岡越前第4部』(1974年)演:神山繁

『水戸黄門第8部』(1977年)演:峰祐介

暴れん坊将軍』(1978年)演:溝田繁

暴れん坊将軍III』(1988年)演:早川雄三

『大岡越前第10部』(1988年)演:鈴木瑞穂

『大岡越前第11部?第13部』(1990年?1993年)演:幸田宗丸

暴れん坊将軍V』(1993年)演:大出俊

八代将軍吉宗』(1995年)演:石立鉄男高橋悦史の予定だったが、病気のため石立が演じることになった(高橋は翌年死去)。

『大岡越前第14部』(1996年)演:高野眞二

大岡越前』(2013年)演:渋谷哲平

参考文献

根岸鎮衛耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。水野和泉守(忠之)についての逸話を収録。

脚注^ 当時の水野家の厚遇を詠う狂歌「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」が残る。(「アル書ニ載ス。此時御預リ四家ノ優劣ヲ詠ゼシ歌」『浅野一乱記』)
^ 赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」
^ 赤穂浪士切腹当時の水野屋敷は、現在の「水野監物邸跡」より北へ50メートルほど離れた場所にあった。(東京都教育委員会)
^ 久松松平家は浪士を罪人として扱い(『波賀清太夫覚書』では「警備には鎖を着込み具足も用意、沙汰がある前から自身を主税の介錯人に定む」)、切腹でも失礼(主税が腹に当てる以前に斬首)、毛利家は部屋をくぎ付けした以外に、自害や反乱を警戒し火気(火鉢・煙草・風呂)厳禁とも伝わる。(『府中侯留書』)
^ 「水野家文書」(東京都立大学付属図書館)
^ 旗本家
^ 岡崎藩

関連項目

岡崎城

水野氏

徳川吉宗










水野氏岡崎藩4代藩主 (1699年 - 1730年)
本多家

本多康重1601-1611

本多康紀1611-1623

本多忠利1623-1645

本多利長1645


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