水野勝成
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 妙舜尼の菩提寺である妙蓮寺(福山市)に収蔵される肖像画には顕如の長男で真宗大谷派(東本願寺)12世教如の署名があるほか、教如の書状も残されている。また、都築吉豊の養女になってから嫁いだのではないか、との推測もある[2]
^ 『織田信雄分限帳』」(天正13 - 14年(1585 - 1586年)成立)によると、忠重は刈屋、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち都合13,000貫文(10万石以上)を領するとなっているから、このときからそのぐらいはあったと考えられる[要出典]。
^ 『関東古戦録』によると、大道寺新四郎。
^ 『服部半三武功記』によると滝川一忠
^ 『津田家記録』に「三好孫四郎秀次公、四国平均なられ候節、六左衛門(勝成)も一緒に、越智氏河野家追討に罷り越され、武勇これあり候」とある。
^ この時期、美作国の豪族・安東国貞の娘婿になっていたようで、のちに安東助之進が、水野家に縁故仕官している。
^ 備中・備後においては流浪の勝成伝説が多く出来あがっており、その中には明らかな作り話もある。

鞆の安国寺に隠れた。

芦田郡土生城主・豊田美濃守の所に泊した。

行き倒れて老婆に飯を恵んでもらった。またこの老婆の紹介で姫谷焼の人夫として働き、「日ならずして無類の上手になり」立ち去った。さらに徳川家康の密偵として全国を旅していたとも言われる[要出典]。

^ このとき勝成は家康から300人扶持(約1万石)を与えられている(『武功雑記』)。
^ 加賀井重望に指令を出していたのは西軍の大谷吉継とされている(『徳川実紀』)。
^ 秀吉に幾度にもわたって削られた忠重の当時の石高は、によると2万石である(『当代記』)。勝成が家康からもらっていた300人扶持を合わせて3万石とも推定される[要出典]。
^ 為信は参加しておらず、津軽軍を率いたのは津軽信枚
^ この炎は関ヶ原の戦いにも少なからぬ影響を与えたようである。南宮山の西軍は、山が邪魔になり主戦場を見ることはできないが、大垣城は見ることができる。また、戦場を中央突破で脱出してきた島津勢は当初、大垣城に籠城するつもりでいたが、大垣城から火の手が上がっているのを見て、城に籠るのは諦め、伊勢路に向かった(『大重平六覚書』)。
^ この使者を務めたのが服部康成と思われる。
^ この刀は後に勝成の官名「日向守」から「名物日向正宗」と名称付けられ、現在は国宝に指定され三井記念美術館に収蔵されている。
^

『福山開祖・水野勝成』や『開祖水野勝成一代記』では、勝成が「大和口の総大将」と書かれている。

吉本健二『真説 大坂の陣』では、「名義的にはともかく、実質的な幕府方大和口方面軍の大将に任じられていた先鋒大将・水野勝成」という書かれ方になっている。

『日本合戦譚』は「水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等の連合軍であった」と書かれている。

^ 大野治房ら大坂勢はこの水野の旗指物を見るなり「奈良をすてて郡山に引取りしかば、奈良の土人は大いに安堵」したという(『新町と松倉豊後守重政400年記念誌』)。
^ 冬の陣からの勝成の与力を務めた。
^ 松倉、別所、奥田は大和衆。
^ 一番乗りが勝成、二番目に中山勘解由、三番目に勝俊、四番目に村瀬左馬という順(『日向守覚書』)。
^翁草』では、又兵衛は「水野美作守手に死す」と書かれている。
^ 小松山に布陣し、山を駆け降りた後藤隊は伊達勢と正面からぶつかり合い、双方激戦の上で、基次は乱戦の中に討ち死にし、後藤勢の残存部隊は後続の大坂方に収容されて退却している(長沢九郎兵衛『長沢聞書』ほか)。
^ 本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢などそれぞれの家臣の説もあり。
^ 「戦功第一」は大坂城の堀埋めを指揮した松平忠明とされている。
^ 勝成の領地は、郡山城周辺だけでなく、現在の生駒市や奈良市などにまとまって設けられた。山城や河内との最短ルートを確保していた。大坂の陣後の臨戦態勢の中、効率的に兵を動かせるルートをいくつも持っていた(『毎日新聞』2012年07月17日 地方版)
^ 勝成が加増の少なさを嘆いた逸話は『福山開祖・水野勝成』では伝説として紹介されている。
^ 文献に残る藩札としては最古である。
^ 水野軍を指揮したのは勝俊。
^ 「あまりにも凄すぎて、誰にも縛ることができない」という意味。
^ 御珊地蔵、珊誉女という歯痛を取る地蔵尊として祀られる。江戸の善長寺でも祀られたため、歯神、歯痛の神おさんの方として広く民間の信仰を集めた。[45][46]
^ 勝成が三村親成のもとにいたときに懇ろになる。江戸屋敷に住み、正室のように扱われるが正式なものではなかったらしい。お珊が正室に迎えられると、江戸より京に帰り、都築右京に再嫁。正保4年(1647年)10月21日に死去すると、勝俊が遺骸を引き取り、大名の室としてふさわしい立派な墓を建てる。そのためお登久が先妻、お珊(於珊)は後妻だったのではないかと推測もあるが、対外的・対幕府的には飽くまでお珊が正室であった。地元福山では、良樹院と香源院は成羽時代から終生昵懇の間柄であったと伝えられる。[2]
^ 慶長12年(1607年)に勝成が身請けした歌舞伎女。慶長13年(1608年)に京都で勧進法楽(公演)の歌舞伎を行わせている。この公演を京都の町人は褒め称え、若者で見ないものはいなかったという[47]。出来島隼人の名前は『慶長見聞集』にもみられる。慶長13年(1608年)、出来島隼人一座は家康によって「淫佚である」として駿府から追放された。あるいは、前記の側室のいずれかの可能性あり。
^ 三河刈屋城主であったとき、息女の心光院を亡くした勝成は、その追善供養のために定福寺を建立。その後、勝成の福山転封に従い、定福寺も元和7年(1621年)に移築された。於登久、於珊の墓もここにある。
^ 詳細は不明。彼女に関係する逸話としては、生駒家の主席家老・生駒将監が、子の帯刀の正室に勝成の娘を娶りたいと、生駒家の後見役である藤堂高虎に申し出て、奢りであると高虎が激怒。これが生駒騒動の遠因の一つになる。

出典^ 『肥後国誌』
^ a b c d e f g h i j k l m n o p 平井 1992[要ページ番号]
^ 広島県史跡 水野勝成墓説明石碑
^ 霊源院所伝の旧記
^ 『京極高次家伝』
^ a b 高柳光寿『新訂寛政重修諸家譜 6』[要ページ番号]
^ a b c d 楠戸, p. 14
^ 『柏崎物語』『徳川実紀』
^ 平井 1992, p. 42.

次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:99 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef