水野勝成
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一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると[7]、そのまま信吉麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って[7]、家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した[8]。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った[7]
出奔

天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。勝成は伊賀者とともに真っ先に乗り込み、九鬼船二艘を乗っ取る[9]。一益の子滝川三九郎[注釈 7]と一騎打ち。勝成は三槍入れるも二ヶ所槍を入れられ、双方傷を負い、三九郎は大手門に逃げ込む[10]。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が羽柴秀吉伊勢国桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[7]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。以後、美濃尾張の縁者の下を転々とし、遂には京都にいく。

京都では従者も連れず闊歩し、南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした[2]

天正13年(1585年)3月27日、織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に入った勝成は、紀州雑賀攻めに参加した[11]。同年に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった[注釈 8]。9月1日[12]、勝成は豊臣秀吉から摂津国豊島郡神田728石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれたという[13]。勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細ななりゆきは不明である[注釈 9]
九州転戦

天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられる。隈部親永の反乱(肥後国人一揆)が起きると菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本城救援戦で先鋒となる[14]。この戦いでは武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。成政の要請に応じた立花宗茂が反乱側に包囲されていた平山東・西付城を後詰めした際には、立花家の十時連貞安田国継と共に働き城を救っている。一説によれば隈部親子を討ったのは勝成であるといわれる[15]

乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主・黒田孝高に仕官した。豊前国人一揆では野中鎮兼が籠もる長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次殿を争った。

その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したが備後国鞆の浦で下船し出奔した。長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。

天正16年(1588年)には小西行長に1,000石で仕官する。天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟・小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競った。志岐鎮経の本拠志岐城加藤清正の援軍と共に攻略、さらに天草種元本渡城を落とした。その後、行長の元を去り清正、次に立花宗茂に仕官したものの、いずれも間もなく出奔した[16]
貴種流離譚

ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としている[注釈 10]。最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となった。文禄3年(1594年)9月、月見会の席上で作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔するが、翌年正月、再び成羽に帰り三村家の食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる於登久(おとく)であり、この子供が後に福山藩第2代藩主となる勝俊である。
跡目相続

慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)4月[17]、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解する。同年4月22日、勝成の妹・かな姫(のちの清浄院)が家康の養女となって、加藤清正と結婚[18]。慶長5年(1600年)に家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣している[注釈 11]。7月18日、三河国池鯉鮒にて、忠重は加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害された[19]。同席していた堀尾吉晴に返り討ちされた重望の懐からは、石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきた[注釈 12]。7月25日、家康に従軍していた勝成は、一旦、刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石[注釈 13]の跡目相続を命じられた。以後、家康の側近になる[20]
関ヶ原の戦い水野勝成が大垣城攻めで奪った日向正宗(三井記念美術館蔵)

水野家当主となった勝成は会津征伐中止により刈谷城に戻り、関ヶ原の戦いへと出陣する。9月13日、島津義弘の足軽が曽根城に鉄砲を撃ちかけてきた。井伊直政、本多忠勝から「六左衛門殿でなくては、この戦は手に合わないので、直ちに島津勢に軍勢を差し向けてもらいたい」と懇願される[2]。勝成は弟・水野忠胤と共に曽根城の防衛に向かう。勝成が楽田の陣の櫓に鉄砲を撃ちかけると、島津はさっさと楽田より引き上げてしまった[2]

翌日、勝成は関ヶ原への従軍を家康に願いでるが許されず[2]、大垣城への抑えとされた。そこで14日深夜、松平康長西尾光教津軽為信[注釈 14]松下重綱らと共に、石田三成が出撃した直後の大垣城を攻めた。三の丸を占拠。二の丸に攻め入るもその場で火を放って撤退[14][注釈 15]

関ヶ原本戦の勝利の情報が届くと、囲みを解いて曽根に撤退。そのため、大垣城には本戦の敗残兵が入り、大敗を吹聴したため城内の士気は瓦解する。勝成はたまたま秋月種長と知り合いだったので、城将を暗殺して内応の実を示すならば旧領安堵の労をとろうと伝えた[21][注釈 16]。16日の夜、相良頼房・秋月種長・高橋元種が内通を申し出、18日に垣見一直熊谷直盛木村由信・木村豊統の首級をもって来た。


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