水源_(小説)
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トゥーイーは、ロークを中傷するキャンペーンを始める。トゥーイーは、頭の弱い事業家を説得して、人間の精神を讃える神殿の設計をロークに依頼させる。ロークはこの神殿にドミニクの裸像を置くが、世論はこれに反発する。トゥーイーは神殿の依頼主の事業家を操り、ロークを告訴させる。裁判で、キーティングを含む著名な建築家たちは、ロークのスタイルが非正統的で不合理であると証言する。ドミニクはロークを弁護する証言をするが、ロークは敗訴する。自分自身の敗北、そしてロークを讃える仲間たちの敗北に心をくじかれたドミニクは、キーティングに結婚を申し出る。キーティングは、トゥーイーの姪のキャサリンとの婚約を破棄し、ドミニクと結婚する。その後ドミニクは、ロークに設計を依頼しそうな人物を見つけては、ロークではなく、キーティングに依頼するよう説得するようになる。ロークはドミニクの妨害にもかかわらず、細々とだが着実に依頼主を獲得し続ける。

ドミニクは、キーティングに名誉ある設計案件を勝ち取らせるため、「ニューヨーク・バナー」のオーナーで編集主幹のゲイル・ワイナンドに近づく。ワイナンドは、大型案件をキーティングに発注するのと引き換えに、ドミニクを自分に譲るようにキーティングに要求する。その後ドミニクはキーティングと離婚し、ワイナンドと結婚する。その後ワイナンドは、自分が気に入る建物はすべてロークの設計であることを知り、自分とドミニクの新居の設計をロークに依頼する。ロークの設計でワイナンドとドミニクの新居が建ち、ロークとワイナンドは親友になるが、ワイナンドはロークとドミニクの関係を知らない。

キーティングは、多くの建築家が切望する公営集合住宅コートランド・ホームズの設計の仕事を獲得するべく、トゥーイーに口利きを懇願する。キーティングはロークに、コートランド・ホームズの設計を手伝ってくれるように依頼する。ロークは、自分が設計したことを決して明かさないことと、完全に自分の設計どおり建てられることを条件に、キーティングの依頼を引き受ける。ロークがワイナンドとの長期の旅行から帰ってみると、キーティングの約束に反し、コートランド・ホームズは変更された設計で建てられていた。ロークは、コートランド・ホームズを爆破する。

ロークを糾弾する声が国中から上がるが、ワイナンドは部下の記者・編集者に命じて「ニューヨーク・バナー」の紙面でロークを擁護させる。「ニューヨーク・バナー」紙の販売部数は落ち、スタッフたちはストライキに入るが、ワイナンドはドミニクの助けを借りて新聞を発行し続ける。新聞社を閉鎖するか、ローク擁護を撤回するかの選択を迫られるに至り、ワイナンドは、ロークを糾弾する記事を自分の署名入りで掲載することを選ぶ。コートランド・ホームズ爆破事件の裁判で、ロークは陪審員や傍聴人たちの感情をかき立てる演説を行い、無罪になる。ドミニクはワイナンドと離婚し、ロークのものになる。ワイナンドは「ニューヨーク・バナー」を閉鎖し、高層ビル「ワイナンド・ビルディング」の設計をロークに依頼する。18ヶ月後、「ワイナンド・ビルディング」の建設現場に訪ねてきた妻ドミニクを、天空にそびえる建設中の摩天楼の頂きに立つロークが迎えるシーンで物語は終わる。
背景

1928年、セシル・B・デミルは、映画「スカイスクレイパー」(Skyscraper、1928年)の脚本の執筆をランドに依頼した。ダッドリー・マーフィー(Dudley Murphy)による原作では、ニューヨークのある高層ビルの建設に携わる2人の建設労働者が、1人の女性の恋人の座をめぐって争う物語だった。ランドはこの物語を、2人の建築家のライバル関係に変えて書き直した。2人の建築家の1人はハワード・ケーン(Howard Kane)という名前で、使命に身を捧げる理想主義者であり、様々な困難に打ち克ち高層ビルを建設する人物として描かれた。エンディングでは、完成した高層ビルの頂上に立つケーンが、勝利に胸を張り空を見上げるとされていた。最終的にデミルはランドの脚本を却下し、映画はマーフィーの原作に従って制作されたが、ランドによる幻の脚本には、彼女が後に『水源』で使用するさまざまな要素が含まれていた[1]

1999年に発行された『ジャーナル・オブ・アイン・ランド』(The Journals of Ayn Rand)[2] の編集者、デイヴィッド・ハリマン(David Harriman)も、ランドの初期の未完の小説のノートに、『水源』のいくつかの要素が既に登場していることを指摘している。この未完の小説の主人公は、ある牧師から耐え難い責め苦を受け、最終的にこの牧師を殺し、刑に処される。世間からは美徳の化身と見なされているが実際には怪物であるこの牧師は、多くの点でエルスワース・トゥーイーに似ており、この牧師の暗殺は、スティーヴン・マロニーによる未遂に終わったトゥーイー殺害に重なる。

ランドは1934年に最初の小説『われら生きるもの』を完成させたのに続き、『水源』の執筆に着手した。最初のタイトルは『セコハン人生』(Second-Hand Lives)だった。ある程度ランド自身の個人的な体験を題材にした『われら生きるもの』と異なり、建築というあまり馴染みのなかった世界を題材にした小説を書くにあたり、ランドは広範な取材を行った。取材の一環として、ランドは建築家の伝記や建築に関する書物を多数読んだほか[3]、建築家エリー・ジャックス・カーン(Ely Jacques Kahn)の事務所で無給のタイピストとして働かせてもらった[4]

ランドは当初、「1つのテーマでしか書けない作家」と見なされるのを避けるため、『われら生きるもの』よりも政治性の薄い小説を書こうとしていた[5]。『水源』のストーリーが形作られるにつれて、この小説で個人主義をめぐって展開される思想に、ランドはより政治的な意味を見出すようになった[6]。また、当初ランドは、4つあるセクションのそれぞれを、自分の思想形成に影響を与えたフリードリヒ・ニーチェの言葉で始めるつもりだった。しかしやがてニーチェの思想が彼女の思想とあまりに異なっていると判断するに至り、ニーチェの言葉を引用するのはやめた。最終原稿に残っていたニーチェへの間接的な言及も、編集で削除した[7]

『水源』の執筆作業はたびたび中断された。1937年、ランドは『水源』の執筆から離れ、短編小説『アンセム』(Anthem)を書いた。また、舞台版『われら生きるもの』(We the Living)も完成させた。舞台版『われら生きるもの』は、1940年前半に短期間上演された[8]。1940年には、政治運動にも積極的に関わった。まず米国大統領選挙でウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア・スタッフとして活動し、続いて保守派知識人ためのグループの設立を目指した[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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