水戸徳川家
[Wikipedia|▼Menu]
篤敬は駐イタリア特命全権公使式部次長貴族院議員などを歴任した[20]

歴代当主に尊皇家が多かった水戸家は明治以降に位階を追贈されることが多かった。とりわけ光圀と斉昭の位階は引き上げられ、1869年(明治2年)には両名とも従一位が追贈され、1900年(明治33年)には光圀に正一位、ついで1903年(明治36年)には斉昭にも正一位が追贈されている。光圀が1657年明暦3年)に始めて以来水戸家が続けてきた全397巻(うち本紀73巻、列伝170巻)からなる『大日本史』は1906年(明治39年)に完成を見た。その内容は尊皇思想に貫かれ、皇統を明らかにして南朝を正統としたことなどを特色とする[21]

1929年昭和4年)に「大日本史の編纂を完成し皇室国家に貢献したる功」が認められて当時の当主徳川圀順侯爵が公爵に陞爵。その功績調書には大日本史編纂に果たした勤王思想、第98代長慶天皇を正統に列したこと、歴代天皇陵を捜索して修復した功績、楠木正成の顕彰などが列挙されており、明治以降はもちろん維新前からの歴代当主の尊皇思想が評価されたものであった[22]。尾張家と紀伊家は侯爵のままだったので御三家で家格が一番高い家になった[2]

1939年(昭和14年)時の水戸徳川公爵家の邸宅は東京市渋谷区猿楽町にあった[9]

圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。1977年(昭和52年)、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館(現・徳川ミュージアム)を開き、その保存・展示に努めている。
歴代当主と後嗣たち

水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の諡号が贈られている。

代数肖像名前(諡号)
(生没年)続柄位階備考後嗣
1徳川頼房(威公)
(1603年-1661年)徳川家康末男正三位初代水戸藩
権中納言

松平頼重高松松平家祖)

徳川綱方

徳川綱條(3代)

頼章(徳川宗堯(4代)の祖父)


光圀(2代)

松平頼元守山松平家祖)

松平頼隆石岡松平家祖)

松平頼雄宍戸松平家祖)

2徳川光圀(義公)
(1628年-1701年)先代の子従三位
1900年正一位追贈2代水戸藩
権中納言
通称「水戸黄門」

松平頼常(高松松平家へ養子)

3徳川綱條(粛公)
(1656年-1718年)先代の甥
(高松松平頼重の次男)正三位
1928年従二位追贈3代水戸藩
権中納言

吉孚(夭折)

4徳川宗堯(成公)
(1705年-1730年)先代の大甥
(高松松平頼豊の長男)従三位4代水戸藩
参議

宗翰(5代)

5徳川宗翰(良公)
(1728年-1766年)先代の子従三位5代水戸藩
参議

治保(6代)

6徳川治保(文公)
(1751年-1805年)先代の子従三位
1907年正二位追贈6代水戸藩
権中納言

治紀(7代)

松平義和高須松平家へ養子)

7徳川治紀(武公)
(1773年-1816年)先代の子従三位7代水戸藩
参議

斉脩(8代)

斉昭(9代)

8徳川斉脩(哀公)
(1797年-1829年)先代の子従三位8代水戸藩


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef