「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』[原 1]では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したという[3]。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある[4][5]。これとは別に、応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafe)」から「けひ(kefi)」に変化したとする説もある[6]。
以下本項では、社名には「氣比」を使用し、史料の引用など社名以外では常用漢字体の「気比」を使用して解説する。 祭神は次の7柱[2]。本殿(本宮)に主祭神と2柱、本宮周囲の四社の宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る[2]。
祭神
本殿(本宮)
伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后。
四社の宮
東殿宮:日本武尊(やまとたけるのみこと)
総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。
平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命
西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)
祭神関係略図
(伊奢沙別命を除く6柱の関係を社伝に基づいて掲載。数字は天皇代数)
日本武尊
14 仲哀天皇 神功皇后玉姫命
15 応神天皇武内宿禰命(家臣)
祭神を7柱とする記載は、古くは『延喜式』神名帳に見える[3]。『気比宮社記』によれば、当初の祭神は伊奢沙別命1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとする[3]。 上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である[注 1]。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる[4]。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される[5]。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり[5]、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる[4]。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている[3][7][5]。一方、『日本書紀』[原 9]に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり[8][5]、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある[9]。応神天皇(『集古十種』)第15代天皇。『古事記』『日本書紀』によれば伊奢沙別命(神宮の主祭神)と名を交換したという。 このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』[原 1]『日本書紀』[原 10][原 3]によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する[5]。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ[5]。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため気比神に参詣したという[5]。以上のように、歴史の早い段階から気比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており[3]、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる[5]。
祭神について