この時中心となったのが、起草委員を務めた奥野健一、我妻栄、中川善之助らであり[11]、信義誠実の原則や権利濫用の法理もこの時明文化された(現行1条2項及び3項)。
上記のとおり、民法典は形式上は明治29年の法律と明治31年の法律の二つの法律から構成されているとみることもできたが、後者(親族、相続)は、前者と一体をなすもので実質は同一法典であるから[12]、通常は、民法を引用するときは、明治31年法の第四編以下を当然に含む意味で民法(明治二十九年法律第八九号)と表記される[13](有力な反対説がある[14])。
また、民法施行法は両者を一体の法として扱っており、民法の条名も通し番号となっていることから、実質的には一つの法典と考えることも可能であり[15]、さらに、口語化と保証制度の見直しを主な目的とした民法の一部を改正する法律(平成16年法律第147号)が2005年に施行されたことに伴い民法の目次の入換えがされ、入換後の目次が一体となっていることから、今後は一つの法典として理解することになる[16]。
制定当時の民法と現在の民法は形式上は同じ法律であるが、家族法(身分法)についてはその内容に大きな変化が加えられているため、戦後の改正以前の民法(特に家族法)を「明治民法」と称することもある。
なお、日本における民法編纂の歴史については民法典論争を、民法の口語化については民法現代語化を参照 日本では、中国式の法典である律令法の大宝令が8世紀初頭に成立して、民法の規定もその要部を占めていた。しかし、12世紀末に武家時代になってから、律令法はその効力を失い、広く一般社会に通用するまとまった形での民法典は存在しなかった[17]。なお、戸令応分条(相続法)について述べた記述が江戸時代の国学者、村田春海の随筆『織錦舎随筆』にみられる[18]。 そして、19世紀半ばに鎖国政策が崩壊した後、諸外国から不平等条約の改正の条件として、民法典の制定を求められたため、早急にこれを制定する必要を生じた[19]。明治新政府の初代司法卿である江藤新平が、箕作麟祥に対して、フランス民法を「誤訳もまた妨げず、ただ速訳せよ」と命じたのは、このような事情を背景としている[20](敷写民法[21])。もっとも、むしろ江藤は国内法統一による富国強兵に重きを置いていたようである[22]。特に外国人に適用されない家族法は不平等条約改正の必須条件ではないため、外国法を模倣する必要がないことは早くから認識されていた[23]。 なお、明治民法が実際に制定されるまでも、民法の全分野につき多数の法令が出されていた[24]。 現行民法の叩き台となったのが、1890年(明治23年)4月21日と同年10月7日に公布され、民法典論争により施行延期となり、そのまま施行されずに終わった、ボアソナードらの起草に成る民法典、いわゆる旧民法と言われる『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』(明治23年法律第28号)と『民法財産取得編・人事編』(明治23年法律第98号)である[25][26]。 ただし、この旧民法においても、人事編及び財産取得編の相続・贈与・遺贈・夫婦財産契約に関する部分(いわゆる身分法又は家族法)は、特に日本固有の民情慣習を考慮する必要があるとの考えから、司法省民法編纂会議の磯部四郎及び熊野敏三ら日本人委員のみが起草した[27]。したがって、旧民法草案[28]が旧民法公布までの10年間の間にボアソナード自身、あるいは日本人委員の手によって手を加えられていることもあり、そのまま旧民法というわけではない[29]。 この旧民法を起草に当たって主要な母体となった外国法が、当時ヨーロッパで評価の高かったフランス民法典である。 このフランス民法典は、フランス革命の産物ではあるが、全てが近代自然法説に貫かれたものではなく、パリを中心とする北部フランス共通慣習法を中核に、ローマ法と18世紀の自然法思想を加味して成立したものである[30]。近代的所有権の確立や契約自由の原則を打ち出すなど近代財産法秩序の基本的枠組みを確立し、また、平等主義に基づいて家督相続制を採らず、男女平等を原則とするなど画期的な部分を多数有しつつも、ナポレオン法典制定時の世相を反映して、婚外子に対する差別的取り扱いや、婚姻時には男女不平等を徹底する等、後続のドイツ・スイス民法などと比べても、その家族法部分においては封建時代の残滓を有していた[31]。
沿革
旧民法以前
旧民法