これに対し、明治民法は戸主権を強化し、個人主義的な旧民法の家族法部分を半封建的に修正したものであるとの理解が一時支配的であったが、旧民法と明治民法が大差ないことを説明できず、実証的な根拠が無いと批判されている[38]。
外国法の法理は、明治民法においては旧民法以来日本独自の固有法が多いために、家族法の解釈において主要な参考資料にならないと説明されていた[39]。
これに対し、日本独自の家制度が除去された戦後の改正民法は大陸法の発展である[40]。特に相続法につき、専門用語や技術的な規定を通して、旧民法以来のフランス法の影響が強調[41]されることがある。
刑事訴訟法や憲法と異なり、立法におけるGHQからの積極的干渉及びアメリカ法の影響は否定されている[42]。 現行の日本民法典の財産法部分については、日本法独自の部分を有しながらも基本的にはフランス民法典の延長線上にあった旧民法と異なり、膨大な外国法典、草案、法令等を参照し、比較法の手法によって取捨選択することで立案されたと評価されており[43](参酌民法[44])、その中でも特にヴィントシャイトを中心にローマ法を再構成して起草されたドイツ民法第一議会草案[45][46]に多くを依拠しているとするのが伝統的通説である[47]。 ただし、物権法の分野に限っては、日本独自の法慣習や社会的実態を考慮すべきことから、影響が他分野に比べ相対的に低くなっている(特に不動産物権変動)[48]。もっとも、土地法分野は、旧民法からの離脱が最も顕著な分野の一つでもある[49]。 このドイツ民法第一草案は、19世紀ヨーロッパの法律思想である個人主義的自由主義の集大成であり[50]、自然法論にも歴史法学にも偏することなく、民族を問わず適用されるローマ法の万民法を抽象化したもので、世界各国の立法・判例・学説に多大な影響を与えた完成度の高いものであった。 しかし、その自由主義と政治的中立性の故に、社会的弱者への積極的救済が社会政策に丸投げといううらみがあり、またそのローマ法的・個人主義的性格は、農村由来の団体主義を基本とするゲルマン法との抵触が問題となり、更に、学問的抽象性の高さは実務的な運用性に長ける分、法律の素人には難解であった。ギールケらによる批判を受けて第二・第三草案で修正されたものの、根本的修正は至らずドイツ民法典として成立している[51]。 民法典論争を経て成立した明治民法(特に財産法)もそれらの性質を継承しているため、批判の対象になっている[52]。 なおドイツ固有のゲルマン法の影響が拡大した第二草案は起草の途中から参照している[53]。特に即時取得の制度にゲルマン法の影響が見られる[54]。 日本民法起草にあたって参照された他のドイツ法系の法典・草案としては、ザクセン、プロイセン、スイス(連邦法・州法)[55]、オーストリア、モンテネグロなどがあり、他方、フランス法系ではフランス・イタリア・スペイン・ベルギー・オランダ・ポルトガルなど、英米法系ではインドやイギリス・アメリカ法など[56]、そのほかにもロシア民法などが挙げられており、この内特に有益であったものとして、ドイツ・スイス・モンテネグロ・スペインが梅によって挙げられている[57][58]。 それらの影響の比率については、明治時代の民法学者岡松参太郎は、当時の立法過程を分析した結果、独6、仏3、英0.2、日本慣習0.8であると指摘していた[59]。 なお英米法に由来するものとしては、ウルトラ・ヴィーレスの法理を規定した民法34条(法人の能力)や、Hadley v. Baxendale事件の判決で表明されたルールを継受した民法416条(損害賠償の範囲)等がある。起草者の穂積が当初イギリスに留学したことの影響と推測されている[60]が、梅の担当部分にも僅かに英法の影響が見られるほか[61]、大陸法系の民法中特に条文数が少なく、必要最低限しか書かずに多くを判例に委ねる規定の仕方自体、判例法国である英米法の考え方を一部採りいれたと理解されている[62]。
財産法