民族自決
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1917年、ロシア革命中にウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権による布告「平和に関する布告」は、「無賠償・無併合・民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案した[3]。この民族自決は、ヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく、政権・多民族国家などによる、植民地を含めた他領土・他民族の強制的「併合」を否定し、個々の民族の自決を全面的に支持した内容であった。アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンはこの布告を「世界に貴重な原則を示した」と評価した。しかしフランスやイギリスなどの同盟諸国はこの布告を無視した。1918年、ブレスト=リトフスク条約で、ロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランドエストニアラトビアリトアニアポーランドウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハンカルスバトゥミに対するすべての権利を放棄した。

ウッドロウ・ウィルソンが1918年に発表した「十四か条の平和原則」の第5条で制限的な民族自決に言及し、それが翌年のヴェルサイユ条約での原則となった。これにより、オーストリア=ハンガリー帝国などが分国し、アイルランドフィンランドバルト三国ポーランドチェコスロバキア、セルビア人=クロアチア人=スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)が、アジアやアフリカでは、モンゴルアフガニスタンイラクイエメンエジプトが独立を果たした。しかしイギリスやアメリカ合衆国は海外に植民地を有しており、民族自決はあくまでヨーロッパ内部にのみ適用されたルールであったため、非西欧諸国で生じた独立運動に対し政府は弾圧の姿勢を取り続けた(インドにおける民族自決運動に対するイギリス政府の対応)。しかも、民族自決の理念の基独立を果たした東欧諸国も様々な民族が混在する中で連合国の都合で国境が画定されたためにその後も民族間での不満が燻り続けた。また、これを逆手に取り周辺地域に住むドイツ系住民の保護や民族自決の適用を理由にナチス・ドイツがこれらの地域を併合し、第二次世界大戦を引き起こすに至った。
インドにおける民族運動の展開塩の行進:イギリス政府による塩への課税を植民地支配の象徴と捉え、法を犯して塩づくりを行うことで植民地支配に対抗した。

第一次世界大戦中、イギリスは民族自決という国際世論の圧力に押され、インドに自治を独立したものの、大戦後の1919年インド統治法は自治とは程遠い内容であり、同年に制定されたローラット法に基づき、イギリスは抗議運動をしていた民衆に発砲するといった強圧な態度を取った。これに対しガンディーは、非暴力を掲げた民族運動を実施したものの、農民による警官殺害事件を機に生じた民族運動方針の対立により頓挫した。その後インド統治法を制定するための憲政改革調査委員会にインド人が含まれていなかったことに不満を抱いた現地民を中心として民族運動が激化し、1929年にはネルーらの急進派が完全独立を訴える中、1937年には州選挙が実施された。第二次世界大戦が始まり、完全独立のための民族運動は、イギリス政府により弾圧され、ガンディーなどは投獄された[4][5]
東アジアにおける民族運動

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東南アジアにおける民族運動

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冷戦期の民族自決とその歴史的事例

近世初頭(16世紀から17世紀)において、植民地諸国はあくまで宗主国の対象として見られていたが、19世紀には宗主国の超過利潤追求のための支配の客体として位置づけられるようになった[6]。しかし第二次世界大戦を通じ植民地施政国は経済的に疲弊し、植民地諸国に権力の空洞が生じた。アメリカは植民地における民族自決に好意的な態度をとり、冷戦の中で共産主義陣営に第三世界の国々がつくことの懸念などが原因となって、「植民地独立付与宣言」などを経て植民地体制が国際社会で非難される中で植民地を手放さざるを得なくなった。こうして植民地体制は結果として崩壊した[7][8]

帝国主義の下で西欧列強の植民地となっていた国々では、民族自決原則に立脚した独立・建国運動が多くの非西欧地域で展開されていた[9]。その運動は植民地体制の崩壊という現実の中で実現し、結果として元植民地諸国が国際社会に参画し「国際社会の構造変化」が起こった[10]


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