民主進歩党
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旧来支持層のリベラル政策優先への不満の台頭

民進党のルーツは1986年という国民党の独裁体制下で、台湾の民主化を要求する者たちを中心に草の根から始まった政党である。しかし、21世紀以降に「LGBT脱原発ジェンダーなどの問題に非常に高い関心を示す政党」「都市型のエリート政党」の面が強まっている。この面の強化は、「理念よりも若者世代の暮らしをなんとかしてくれ」という不満へつながり、2024年中華民国総統選挙で若年層の支持が減少している一因となっている[13]。2024年の総統選挙では、民進党の「中国大陸と距離を置く姿勢」、国民党の「中国大陸と友好的な姿勢」という既存の二大政党に対する不満が拡大した。そして、二党をポピュリズム的に批判する第三勢力である民衆党が一定の支持を集める原因となった[13]
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民進党本部がある華山商務大樓
党外活動時代

1949年の中華民国政府の台湾移転後、台湾の党外活動家は民主主義自由を求めた活動を断続的に行っていた。1979年に発生した美麗島事件で党外運動は最高潮に達し、当局により施明徳黄信介らの多数の活動家が逮捕投獄された。1980年代、党外勢力は傅正の自宅などに集まり、活動のための組織化を開始した。

1986年9月28日、132人の党外活動家後援が台北市円山大飯店で開催されていた「党外後援会公認候補推薦大会組織」の席上突然結党が宣言され「民主進歩党」と命名された。結党当時は国民党の一党独裁および戒厳令の下で非合法とされたが、結党宣言に対し、当時の?経国総統は「民進党の結成は不法だが処罰はしない」とする方針を打ち出し、事実上黙認する姿勢をとった。1989年に合法化された。
野党時代

1986年に結党後初めての立法委員及び国民大会代表選挙[18] で民進党は20%以上の票を獲得する。以降民進党は街頭デモを繰り返し、当局に対し戒厳令の解除、民主直接選挙の実施、公共政策の調整を主張した。初期の民進党は「本土政党(台湾在来政党)」、国民党を「外来政党」と位置づけていた。一方、デモなどの街頭活動により、「街頭党」と蔑視の意味を含めた名称で呼ばれることもあった。同年11月10日に開催された第1回全国党員代表大会では江鵬堅を主席に選出、台湾の前途は台湾により自由・自由・普遍・公正・平等の原則の下で決定されると規定する党綱領を採択した。

1987年?経国により戒厳令が解除され、民進党は総統の直接選挙を主張した。この時期民進党は「四つのif」と称される決議文を採択し、国民党が台湾人の利益を損なう行為を行ったり、両岸統一などの4内容を実行する時、民進党は台湾独立を支持するとした。

1991年の第5回第1次全国代表大会で正式に台湾独立綱領と称される新しい党綱領を採択、その中で民進党の基本は住民自決の方法により独立自主的な台湾共和国の建国を目指すと明言し、台湾独立を主要な政治目標として掲げた。

1992年に行われた立法委員選挙では民進党は得票率33%、翌年の県市長選挙では得票率44%を獲得した。1994年の台北市長選挙では陳水扁は国民党候補の黄大洲と新党候補の趙少康に競り勝ち当選した。

1995年5月、施明徳は主席に就任後、過去の過激な言動と決別する方針転換を行う。同年9月には民進党政権下では台湾独立を行う必要はないと言及、12月14日には新党と「大和解」の前提のもと会談を行い、許信良は「大胆西進」として中国と現実的に向き合う現実路線を打ち出した。1996年総統選挙では、民進党は初期の台湾独立指導者である彭明敏を候補者に擁立したが、国民党の李登輝候補が当選。施明徳は主席を辞任した。

1997年県市長選挙では民進党は12県市で勝利したが、台北市長選挙では2期目を目指す陳水扁は、清廉なイメージで選挙戦略を展開したが、李登輝により新台湾人と評価された馬英九に敗れた。

1999年は翌年の総統選を考慮し民進党は基本政策に大きな変更を加えた。「台湾前途決議文」を採択し、台湾は既に独立国家であるが、国号は「中華民国」とすると現状追認の政策を発表し、中間層の取り込みを図った。同時に圧倒的な知名度を誇る陳水扁を総統候補に、美麗島事件にかかわり、当時桃園県長を務めていた呂秀蓮を副総統候補に指名した。ノーベル化学賞受賞者の李遠哲の支持を得るなど、連戦宋楚瑜を破り当選、初めての政権交代を平和的に実現した。
陳水扁政権時代

民進党は政策実行経験と人材の不足から、与党としての地位を確立後、政治危機がたびたび発生した。政局の安定を図る陳水扁は国民党籍の国防部長唐飛行政院長游錫?を副院長に指名したが、政権成立からわずか3ヵ月後には「八掌渓事件」が発生し、事件の処理に手間取った結果4人の作業員が死亡、游錫?は自ら引責辞職し張俊雄が後任となった。

また「核四問題」では民進党は台湾の脱原発を政治理念としてきたが、原発推進派の唐飛がこの問題で行政院長を更迭され、張俊雄が後任に就任すると即時核四建設中止を発表。これが政治問題化し国民党により陳水扁に対する罷免要求に繋がった。民進党は妥協案として核四の建設続行を決定、これに反発する民進党内では前主席林義雄による反核四デモが発生した。またこの影響で株価が暴落するなど、経済的にも打撃を受けた民進党は、台湾独立志向の他勢力と緩やかな連合泛緑連盟を形成し政局を乗り切る政局運営が続いた。

対日関係では、8月28日を「台湾抗日記念日」とする検討部会を立ち上げたり、尖閣諸島を自国領土として土地登記するなど、積極的な姿勢を示した。

2004年総統選挙では泛藍連盟の国民党主席連戦親民党主席の宋楚瑜の選挙協力が成立、前回の選挙で票が割れた泛藍支持者の票を統合する選挙戦略を実施した。これにより選挙戦は激しいものとなり、民進党の再選が危機的な状況になった。しかし、2月28日二二八事件記念日に行われた人間の鎖活動での盛り上がりなど、台湾独自性意識の高まりもあって、状況は民進党有利となり、最終的には得票率差わずか0.22%で陳水扁が再選された。


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